心身が弱ってガチで何も出来ない時は「自分は快復に必要な“何もしないをしてる”」と、メンタルを切り換えるのがお勧めな。「早く治さなきゃ!」「あれをやらなきゃ!」というのは歩き出す為の杖になるけど、ガチで☓☓な時は逆に重荷になってしまう。「何もしない」という事の意義を認めてみるというな
往々にして「大人しくて良い子」と言われる人間は、「嫌な事を拒否すると面倒な事になりそうだから多少嫌でも我慢する」という面倒臭がり人間なので、いざ堪忍袋の緒が切れると面倒臭がり反転して「ここで遺恨を断ち切り、面倒を引き摺らないようにしなければ!」となって物凄いキレ方をするというな。
自己肯定感の低いメンヘラ、人間と接しても「私なんかと付き合うのは迷惑では?」と思ってしまい、好意を持たれても「私はそれに応える事は出来ない/私を誤解してる」と怯えてしまい、嫌われて「やっぱり私はそうだよね」とホッとしてしまうので、延々と人間関係が出来ては消えてくを繰り返すというな
幼少期に欲求を抑圧されたり叩かれた人間は、欲求を持つと自動的に周囲との軋轢に苦しむ自分の姿を連想してしまうようになり、それ自体がストレスとなるので「欲求を押し×す」が習慣化してしまうんだよな。結果、傍目には「自分の意思がなく、何をやりたいかもよく分からない」人間が誕生するというな
陰キャが怒られた時にヘラヘラするのは、甘やかされたからではなく、逆に迫害されてきたからなんだよな。からかいや虐めなどの悪意に曝され過ぎた結果、殴りかかられると恐怖で身が竦んでしまうのと同じく、強い圧を感じるとトラウマで脳がパニック状態となり、表情が竦む=ヘラヘラ顔になるというな。
自己肯定感を高める方法として「他者の幸福を無条件に祈る」というのがあって、他者の幸福を無条件に認められるようになれば、翻って「自分も無条件に幸福になっていいんだ!」と思えるようになるんだよな。極論、自己肯定とはいうけど、他人を肯定すれば、自然と自己も肯定出来るようになるというな。
自称コミュ障は往々にして空気が読めないわけではなく、空気が読めるからこそ自身が浮いてる事や上手く振る舞えない事に苦しんでいるんだよな。またその劣等感故に何気ない事にも「失敗」の気配を感じてダメージを受けたり、正解の言動に固執して空回りしてしまう。空気は読めるが乗り切れないというな
幼少期に優しさを潤沢に受けた人間は他人にも惜しみなく優しさを注ぎ、そして注ぎ返されて更に優しくなっていくが、不遇な人間は餓えてるが故に他人に与える事が出来ず、与えられないが故に与えられず更に餓えていく。優しさも資産で、富める者は更に富み、持たざる者は更に失ってく構造があるというな
コミュ障の人間は往々にして「他人に嫌われないように取り繕う能力」だけは高いので、初対面で好印象与えられるのに、それ以上親しくする事は出来ないんだよな。 結果、最終的にどの人間にもフワッとした気まずさを抱くようになるので、「人間関係苦手なのに8方美人やってる」難儀な状況に陥るというな
人間、本当に厳しい環境に置かれると成長どころか鈍化していくんだよな。例えばミスや不手際の度に怒鳴られる環境では、人間の関心は上達や工夫ではなく「如何にやり過ごすか?」で埋まっていく。怯えに染まった個体は、その限界状況から長期的展望が失われ、短期的逃避に専念するようになるというな。
陰キャが「友達はいる?」という質問に即答出来ないのは、往々にして友達0人というよりも「自分なんかが友達と断言していいのだろうか?」と怯えがあるからなんだよな。人間関係のトラウマで「自分に正直になる=調子に乗ると痛い目を見る」が骨身に染みてるので、言葉を濁さずにはいられないというな
ADHDの「気になる事があると集中出来ない」と「乗り気がしないタスクは先延ばしてしまう」が合体すると、必須タスクの「早くやらないと!」という焦燥に脳を占有されるほど、それと向き合うのが怖くて更に先延ばしてしまい、最終的に手遅れが確定して逆にホッとするという奇異な状況が生まれがちだな。
陰キャがファッションなどに関心を示さないのは、「自己主張すると揶揄されたり叩かれたりする」が骨身に染みてる為に、敢えてそうしてる面もあるんだよな。「☓☓なのに調子にのってるw」と嘲笑されてきたが故に、そういったものから距離を置くセルフネグレトが、ある種の自己防衛と化してるというな
コミュ障にとって人間との会話は「空気を解析しつつ1般的な人格をエミュレートして場に合わせる」処理なので、差し障りなく会話出来てるように見えても、頭の中では常に「正解の選択肢を☓☓秒以内に選べ。またリスニングは1回しか流しません」をやってるので、精神が通常の3倍で摩耗していくというな
他の事が気になってタスクに集中出来ないADHDがやるべきライフハックは「作業に不要な物をスペースから排除する」1択で、「他の気になる事をやる」という選択肢自体を潰す。例えばスマホはタスクに不要なら別の部屋に置く。自分はこれを実行した結果、タスク中に頻発に部屋を出入りするようになったな
ADHDの人間、往々にしてスペースが散らかってるのは「汚くても気にならない」というより、「限界まで物を自らの活動に合わせて配置してしまう」的な要素の方が大きいので、少し他者の手が入るだけで大混乱してしまうし、傍目には「整理整頓が苦手なのに完璧主義!?」という矛盾した人間に映るというな
幼少期に「自分が何をやりたいか?ではなく、やらないと他人から色々言われて面倒な事になりそうだからやる」を行動原理にしてきた人間、往々にして大人になると「楽したい」以外の意思が弱く、1度でも躓いて他人から色々言われると「もういいや」と全てが面倒になる自堕落人間になりがちな気がするな
人間、自発的に動くには「自身の裁量権の範囲が分かる」「失敗してもリカバリー出来る」という安心感が必要なので、幼少期に「とにかく周囲に従わされる」「失敗したら終わり」と抑圧されてきた人間は、他人の顔色を伺ってるにも関わらず「甘やかされてきた」と詰められがちな難儀な生物になるというな
「オタクは辞めようと思って辞められるものではない」というのは正論だけど、社会生活や加齢で摩耗した結果、雰囲気は完全にオタクなのにヲタ活はしておらず、オタク語りもほぼ昔話と同義になってるみたいな存在になる事はあるんだよな。オタクは種族なので辞められないけど、ゾンビにはなるというな。
自己肯定感の低いコミュ障は、好意を抱いている人間と交流しようとすると「気を使わせたらどうしよう?」「自分は相手に何も与える事は出来ないでは?」と思い悩んで妙な消耗の仕方をするんだよな。結果、言動がギクシャクしたり変に距離感を調整しようとして行き詰り、徐々に疎遠になっていくというな
Twitterの発達障害の人間、往々にして最初から困難を自覚していたわけではなく、周囲との軋轢や遅れによる「えっなんで皆は出来る/知ってるの?」的な違和/焦燥感の積み重ねの末に、色々ボロボロになって気付くパターンが大半なので、低い自己肯定感や虐め被害がデフォルトになってる感があるんだよな
何らかのキッカケで嫌な記憶を思い出してしまい、それを掻き消すべく発作的に奇声をあげてしまったり変な動作をしてしまうの、個人的には「心のアレルギー反応」と呼んでるな。心の傷付いた敏感な部分に、その原因と類似する抗原が近づくとアナフィラキシーショックで精神の免疫系が過剰に働くというな
コミュ障、TwitterやLINE等のsnsではリプライ貰っても「こんなこと言うのは失礼?」「相手に変と思われないかな?」「力み過ぎではないかな?」等と色々考えてしまってる間に、「自然の内に入る返信のタイムリミット」を逃してしまい、結局は不自然かつ作為的なコメントを返す羽目に陥りがちだというな
自己肯定感の低い人間は「自分は尊重されない」事が骨身に染みているので、例え相手が悪くても怒り方が分からず、「指摘したところで面倒になるだけだし」と自分の非として謝りがちなんだよな。結果、脳には「未解決事件」と記録されて何度も反芻されるので、その度に自尊がガリガリ削られてくというな
コミュ障がコミュニケーションに失敗すると、それが気になって余計な事を言ったり力み過ぎてしまい、そのギクシャク感が自分でも分かるから気になって余計な事を言ったり力み過ぎてしまい、その不自然感が自分でも。。。的なコミュ障スパイラルに陥るので、コミュ障の残機は実質的に1しかないというな