叱責に弱い人間、往々にして怒られ過ぎてトラウマ化してるが故に、他者の不機嫌/悪意に敏感になって大袈裟に反応してしまったり、怒られると頭がパニクッて何も言えなくなったりしてしまうんだけど、傍目には「甘やかされてきたから耐性がない」と思われて更に厳しくされてしまう地獄があるというな。
発達障害人間、往々にして叱責され過ぎているが故に報連相が出来なくなっているんだよな。良いも悪いも「ミスは駄目」という思いが強過ぎて、業務上必要な報連相でさえ「もし自分の勘違いだったら…」と不安と罪悪感に病んで、結局は自己判断で進めて叱責され、更に報連相が苦手になってしまうというな
実は自己肯定感も実家の太さに左右される性質があって、国立青少年教育振興機構「青少年の体験活動等に関する実態調査」にて、自己肯定感は勿論として正義感や自立的行動習慣も世帯収入にバインドされてる事が明らかになったんだよな。つまり人間性なるものも「親ガチャ」からは逃れられないというな。
自己肯定感を高める為には「自分は世界に存在してもいい」と思える安心感が必要であり、その安心感は他者に許容される事で育まれるんだけど、自己肯定感高い人間は積極的に自己開示し許容を得られる1方、自己肯定感低い人間は当然に自己開示出来ず、資本と同様に格差がドンドン開く構造があるというな
虐められっ子には「虐められる原因」が確かにあるわけだけど、同時に「常に虐める為の落度を探られる/作られる」側面があるんだよな。虐められっ子は1度叩いてもいい存在と認識されると、如何な些細な悪徳やミスであれ「殴られても仕方ない罪」になり、クラスの黙認の下でリンチが過激化してくというな
Twitterの人間、普段は陰キャよりのノリだし「キモいからといって虐めていいわけはない。キモい事は罪ではない」的なツィートが流れてくるけど、いざキモい人間が発見されると「アイツはキモいから皆で指差して笑おうぜ!」と1気に虐めッ子精神が炸裂して小中の教室になってしまうバグがあるというな。
親ガチャという言葉、酷い親への呪詛という意味よりも「生まれた時の所得や遺伝に人生が大きくバインドされる」という意味合いの方が強いけど、その意味の先にあるものは不平等・再分配・格差是正の議論への発展なので、否定派はひたすら前者の性質ばかり取り沙汰するようになる霊感があるというな。
空気は読めるのにコミュ障な人間の1番の特徴は「世界に対する罪悪感」で、この手の人間は必要な報告連絡相談でさえ「他者の時間や注意を奪ってしまう」と躊躇するし、嫌な事があっても「自分の方が変なだけかも」と抱え込むしで人間関係の軋轢が蓄積され、ある日突然全てが無理になってしまうというな
ASDの「いつも通り/計画通りに物事を進めたい」「想定外の事態に弱い」特性と、ADHDの「衝動性が強い」「不注意でミスを招きやすい」特性が合わさると、傍目には「平和主義者なのにトラブルメイカーで、しかも起こしたトラブルでは常に自分が1番ダメージを受ける」という謎の生物が誕生するというな。
陰キャの人間、往々にして「自分は嫌われる」という強迫観念を持ってるので他者と関わるだけで罪悪感を抱いてしまうんだよな。それ故に他者との何気ない会話でも感情面では「失敗は絶対に許されない試練」と化すし、終わった後は「あの時の言動は失敗だったかも」と脳内反省会が止まらなくなるというな
他者に「虐められてる」と言えない人間は、往々にして砕けそうな心を「自分は虐められてない」という誇りでギリギリ繋ぎ止めてたりするんだよな。それ故に上手く援助希求出来ない人間に対して「なんで言わなかったの?」と詰める事は、その人間の心を砕く最後の1押しになり得るので注意が必要というな
自己肯定感の低いメンヘラにとって「援助希求」はとても大切なんだけど、助けを求めるには「他者は助けてくれるし自分はその価値がある」と自他に対する信頼感が必要なんだよな。それ故に他者から迫害/無視されてきた人間にとって助けを求める事は、殆ど崖から手を離す事と同義になってしまうというな
今の若者は自己責任論を受け入れてるというより「自分が困窮しても救われるとは思えない」的な諦観を抱えてるように思えるんだよな。自分が転んだり過ったりしても誰かに手を差し伸べて貰えると思えないからこそ、他者を救わないし、周囲にも救いを求めない。冷酷というより無関心が根底にあるというな
自己肯定感低いと人間と同じ空間にいるだけで罪悪感を覚えてしまうので、「人を誘う」という行為が物凄くハードル高くなってしまうんだよな。誘おうと思っても延々「迷惑かな?」と考えてしまうし、そもそも話しかけること自体に「相手の時間や注意を奪ってしまう」的な加害意識が湧いてしまうというな
「努力次第で人間は如何なる環境でも幸せになれる」というのは、裏を返せば「不幸な人間は努力をしていない」ということになるので、努力論者ほど不遇な人間に冷酷になるし、他者の努力に対しても「報われてない貴方は努力が足りない。何故なら報われてないからだ」と否定的になる構造があるというな。
陰キャがコミュ障になる1番の原因が、過去の虐めや抑圧による「怯え癖」なんだよな。人間に対する潜在的恐怖から、人前に出ると心身が強張りコミュ障になってしまう。それ故に陰キャでも気のおけない友人や信頼出来る人間相手とは、コミュ障発動することなく楽しく話せることも珍しくはないというな。
発達障害人間は「ミスをしないこと」「完璧にやる方法」を志向しがちだけど、1番必要なのは「力の抜き方」なんだよな。これを身に着けないと常に緊張に苛まされて何気ない言動でも神経を摩耗し、如何に能力あっても疲労や焦燥から失敗が多くなり始め、そのまま回復出来ずに色々詰んでしまうというな。
社会不適合人間の生き辛さには色々原因があるんだけど、1番は「良くなる見込みや実感がない」事だと思うんだよな。過去の様々な経験により「どうせ全て駄目になる」的な諦観に支配されているので、何もヤル気になれず、やっても充実感や達成感はなく、ただただ疲労だけが蓄積されていくだけというな。
ADHDの「衝動性の強さ」とASDの「拘り・完璧主義」が悪魔合体すると、悪気はないしむしろ人1倍相手に気を遣ってるけど、それでも会話で何かを思いついてしまうと文脈ぶった切るタイミングでも口に出してしまうし、それを全部話さなくては気がすまなくなる地獄が誕生するというな
ADHDがコミュ障になりやすい理由の1つに「マルチタスクが苦手」というのがあるんだよな。会話は周囲を見る・話を聞く・何か言うのマルチタスクであり、ADHD人間は「周囲や話の内容を気にし過ぎて何も言えなくなる」「話すことに集中し過ぎて止まらなくなる」等の事故を引き起こしてしまいがちというな
人生が運に左右されやすい事が1番分かやすいのが「就職活動」で、同じような学歴・能力・容姿・コミュ力の人間であれ、その年の景気次第で就活難易度がガラッと変わってしまうんだよな。人間、良い悪いは別に本人ではどうにもならないところで人生が決められてしまう事も決して珍しくはないというな。
☓努力は必ず報われる。従って報われない人間は努力不足 △努力出来ること自体が恵まれてる証であり、不遇な人間は常に限界ギリギリなので現状維持で手1杯。努力する余裕もないしストレスで認知能力も落ちてしまう ○成功した努力だけが努力と認められ、失敗した努力は自己責任として切り捨てられる
「人間は努力次第で何にだってなれる!」は格差が小さい頃は希望だったが、格差が拡大するにつれて「貴方が不遇なのは努力不足だからだ!」という呪いに変わっていき、研究によって遺伝&実家の所得が人生に与える影響のデカさが明るみになった結果、「親ガチャ」という言葉が誕生してしまったというな
社会不適合人間の人生、正直逆転どころか人並みになることすら厳しいし、普通人間の努力が「投資」とすれば社会不適合人間のそれは「借金返済」なわけでモチベが湧くわけもない。しかし何もしないと状況は更に悪化するわけで、常に付き纏う絶望と如何に上手く付き合うか?がQOL改善の鍵になるというな
発達障害人間の面倒/嫌なタスクの着手tips ・「面倒」と思い始めた瞬間に着手して打ち消す ・「5分やるだけ」と着手の心理的ハードルを下げる ・身体を思いっ切り動かして衝動性発散&ドーパミンを出す ・何か別のタスクをやってる時=動ける時にそのまま本命タスクに移行する ・Twitterを閉じる