「みんなで仲良く思い遣りを!」という集団の中では、当然に集団に馴染めず空気の読めない陰キャは「みんなに不快感を与えてる」として制裁対象や「あの生物は"みんな"じゃない」として駆除対象になるんだよな。「みんなで仲良く思い遣りを」という規範は、裏を返せば虐めを行う正当性になるというな。
「苦労が人間を育てる」というけど、本当に厳しい環境に置かれた人間はその対処で精1杯なあまり、他の事に気が回らなくなったり、活動範囲を広げられなくなるんだよな。結果、同年代の人間が出来てる/知ってる事に対して遅れが目立つようになり、「苦労してないんだね」と煽られる羽目になるというな。
幼少期に「真面目で良い子」と言われた人間は、往々にして「本当の事が言えなくなる」場合が多いんだよな。周囲から抑圧や否定を受けて迎合してきたが故に、自身の考えや感情に自信が持てず、諦観から表明を避けるようになる。結果、Noと言えず限界まで曖昧な態度を取り続けるコミュ障になるというな。
自分1人で全てを抱え込む人間は、大体はそれが非効率だと自覚はあるんだよな。その手の人間は「相手に弱みを晒す面倒/無理解/屈辱リスクを考えれば、1人で抱え込む方がマシ」という結論に至ってるので、「何で言わないの?」と言われる度に、周囲の無理解/面倒さを感じ更に抱え込むようになるというな
自己肯定感の低いメンヘラは、「自分は駄目」と強固に思い込んでいるが故に、期待や評価されると認知不協和で居心地悪さを覚えるんだよな。それ故に落ち込みながら駄目な理由を探し、認知不協和を解消しようとするので、傍目には「自分を良く見せようとしないのに自意識過剰」な矛盾生物に映るというな
人間は暗い気分になると、頭が強迫観念で埋められて視野が狭くなるけど、それ故に社会不適合者は労働やサークル活動等で1度でも失敗して暗い気分になると、「現況報告せず独断する」「気を利かせたつもりで余計な事する」「些細な事柄に拘る」等の失敗が加速度的に増えていき、破滅が始まるというな。
小さい頃に「真面目で良い子」と呼ばれた人間は、往々にして「周囲から非難されそうな言動はしない」自制心を叩き込まれただけなので、人目のないところでは罪悪感に苛まされながらもサボッてしまうし、最終的には「真面目だけが取り得」なのに「それほどマジメじゃない」という謎の生物になるというな
コミュ障と先延ばし癖が合わさると、人間関係で嫌な事や気になる事があった際に、その場では言わないし言えないからモヤモヤを抱いてしまうあげく、それの確認/相談を先延ばしてる内に機会を逸して「我慢するしかない」状態に陥り、頭の中で何度も思い返しては悔しさを噛み締める羽目になるというな。
自己肯定感の低い人間は必ずしも自己評価も低いとは限らなくて、むしろ自己評価の高さで自己肯定感の低さを補ってる場合もあるんだよな。その手の人間は自己評価=存在意義なので、自己評価に傷が付くことを恐れて過ちを認められなくなるし、その不安からマウンティングや他罰傾向が強くなるというな。
幼少期に毒親や虐めで人間の顔色を伺って先回りして機嫌を取るようになった人間は、コミュ力が身に着いたというより「精神が異様環境により凸凹化した」という方が正しいんだよな。確かに××人間とは噛み合うが、普通の人間相手には抱えた罪悪/恐怖感で常に過剰反応してしまい、色々空回りするというな
幼少期に周囲から抑圧されてきた人間は、怒らなくなるというより「怒りを感じた瞬間に心のシャッターが降りてきて、ある種の無感になる」事が多いんだよな。怒りの念が即「もうどうでもいい」みたいな諦観や呆れに塗り潰されていき、「面倒だから早く終わらせたい」という感情しか抱かなくなるというな
人間不信なメンヘラの人間関係、大体は「この人間は私を分かってくれる!」と心を開ける相手に出会って親密になるも、段々と「この人間を喜ばせたい!」と自分を作るようになっていって息苦しさを覚えるようになり、最終的に心を閉ざして関係は破綻し更に人間不信が強化される悪循環が多い気がするな。
自己肯定感の低い人間に「相手の気持ちになって考えてみて」と言っても、その手の人間は往々にして「自分なんかに親切にされても戸惑うだけ」「逆に迷惑?」「そもそも関わりたくないよね?」となってしまうので、相手の事をよく考えた結果として「人間関係をリセットする」強硬手段にでがちというな。
空気は読めるコミュ障、往々にして空気が読めるからこそ自分が浮いてる事が分かって辛くなるし、神経を張り詰めさせてるから心身の消耗が激しいし、空気を思い返して「あの時はこう言っとけば良かった」と後悔に苛まれるし、しかもそうやって発言タイミングを伺ってる内に会話は終わってしまうというな
実は「私はコミュ障だ」と嘆くコミュ障は、コミュ障の中でもコミュ力のある方なんだよな。真のコミュ障は自身がコミュ障と自覚すらしないので「普通は」「常識的に」「人として」等のワードを使い、相手にコミュ力をひたすら要求する。無知の知ならぬ、コミュ障を自覚するだけのコミュ力もないというな
出来るADHDのさしすせそ さ「さぁやるぞ!タスクを終わらせるぞ!」 し「しばらく別のタスクやったり、ダラダラするのは駄目かな?」 す「すぐ終わるし、ちょっとぐらいなら…」 せ「迫る時間切れ、終わらない“ちょっとだけ”…」 そ「そ、そろそろ手を付けないとまずいかな!?さぁやるぞ!」
社会不適合者が社会失敗する要因に「手を抜けない」があって、何事も全力で完璧に取組んでしまうんだよな。 初めは緊張感や心身に余裕あるから上手くいき、周囲も「真面目」と好印象。だが何かの拍子にボロが出ると、余剰リソースない&捻出できないので修正効かなくなり、後は堕ちるだけになるというな
先延ばし癖の酷い人間は、往々にして「遊ぶ」のは好きだけど「遊びに行く」のは嫌いという状態になりやすいんだよな。遊ぶこと自体は好きだけど、「これから遊びに行かなくてならない」という外出準備したり時間を気にしたりする状況が苦手過ぎ、行く前には面倒臭さと必死に戦う羽目に陥ってるというな
コミュ障は往々にして「自分から相手に能動的に働きかけられない」ので会話では受け身気味になりやすいんだけど、これが更に進むとコミュ障にとって会話は「イントロやリズムに合わせて正しい答えを述べないと詰んでしまうゲームを休みなくノンストップで延々プレイする」という試練の場と化すというな
半分俺の自己分析だけど、真面目な人間の真面目さの大部分は「面倒臭い」に支えられているんだよな。規則を破るとバレた時に面倒だし、他人の言う事に異を唱えたら衝突が発生して面倒だし、会社をサボッたら翌日の仕事遅れや気不味さで面倒だし…換言すれば真面目は「最も楽でいられる」手段だというな
Q「貴方はオタクですか?」 陽キャオタク「オタクです(即答」 陰キャオタク「ここで言うオタクの定義って何?今時はみんな普通にアニメぐらい…」 ガチヲタ「自分はオタクのつもりですが、所謂ガチの方と比べてしまうと…」 真性オタク「…っ!(久しぶりに人間と話すので咄嗟に声が出せない)」
先延ばし癖のある人間、先延ばしてるタスクの事で頭がいっぱいになって焦燥感に追い立てられ、前向きな気持ちになれず、複雑な思考も出来なくなり、別のタスクに手を付けたりダラダラしてしまうけど、主観的には滅茶苦茶ストレスに苛まされてるので、結果は伴わなくても疲労感だけは人1倍あるというな
虐待やブラック企業あるあるだけど極端な抑圧下に置かれた人間は、理不尽な環境なりに自衛/適応しようとするあまり、それが出来ない自分が悪いと思うようになるんだよな。傍目には如何に異様でも、主観では「防げるものを防げなかった」と映ってるので、自分を可哀想と思う事も出来なくなるというな。
「真面目で良い子」と呼ばれた人間は「あまり怒らない優しい子」も兼ねてる場合が多いけど、往々にして「怒らない」というよりは「怒り方が分からない」ケースが多いんだよな。怒りの念が湧いても種々の経験で身に着いた諦観で、曖昧に笑って自他を誤魔化す処世術でやり過ごす癖が出てしまうというな。
幼少期に諸事情で「行動を起こす時や何かを決定する時は大人の顔色を伺う」が癖になった人間は、「自分がしたいからする」みたいな積極的動機が失われ、「しないと批難されそうだから」みたいな消極的動機が支配権を握るようになるので、何をやっても達成感よりも先に疲労感が来るようになるというな。