「休むと逆に疲れる」「寝たら逆に眠くなる」的な状態は、心身がダメージを負ったり弱くなったりしてるわけではなく「心身が回復して麻痺してた疲労を感知出来るようになった」証なんだよな。なのでこの時に「自分は休むと調子が悪くなる」と解釈すると、色々マズくなる可能性があるので注意が必要。
自己肯定感の低いコミュ障は、好意を抱いている人間と交流しようとすると「気を使わせたらどうしよう?」「自分は相手に何も与える事は出来ないでは?」と思い悩んで妙な消耗の仕方をするんだよな。結果、言動がギクシャクしたり変に距離感を調整しようとして行き詰り、徐々に疎遠になっていくというな
イジメや虐待などを受けた人間は神経が剥き出しになり、「自分はあの人間にこのタイミングで攻撃されそう」と予測するセンサーがつくんだよな。これは非常時は役に立つけど、通常時は役に立たないどころか害悪で、周囲に「いつも不要にビクビクしてる」と疎まれ、非常時を自己実現させてしまうというな
ADHDの人間、常にワクワクに飢えてるから計画を建てている時は報酬の期待で最高に楽しいんだけど、いざ実行が近付くと「報酬までの労力と時間の実感」でワクワクが萎んでいってしまう事が多いような気がするな。傍目には計画段階では凄く乗り気なのに、実行段階では☓☓になる謎の生物に見えるというな
「自分は凄い人間だ!」というのは自己評価であって、自己肯定感は「自分は凄くなくてもOK!」なので、自己肯定感高い人間は他者に対しても「OK」と寛容になりやすいんだよな。1方で自己肯定感低く自己評価高い人間は「凄くなくてはならない」ので、他者に対してもそれを求め、色々厳しくなるというな
他人の言動が嫌味ばかりに聞こえるようになったり、お気に入りのコンテンツが面白くなくなったりしてる時は、他が変わったというよりも「疲弊のあまり好きを見出す自身の感性が×んでいる」可能性が大であり、この時に「決断」すると高確率で後悔する羽目になるので、暗い気分の時は素直に休むのが吉な
自己肯定感が低いコミュ障がSNSやると、「みんな大好き!」「誰か遊びに行かない?」みたいなポジティブ発現は全て「自分以外かな?」と感じる1方、「こんな人間は嫌い」「面倒になってきた」みたいなネガティブ発言は全て「自分の事かな?」と感じ、気まずさが蓄積されてくというバグが起きるというな
「Twitterやめたら人生良くなる!」というけど、Twitterにハマッて駄目になるような人間は、大体は実生活に何らかの問題を抱えてるからこそ駄目になるほどハマっているので、Twitterやめても問題が解決されない限り、別の依存先を探すだけなんだよな。その意味でTwitter依存は原因というより結果に近い
幼少期に諸事情で「行動を起こす時や何かを決定する時は大人の顔色を伺う」が癖になった人間は、「自分がしたいからする」みたいな積極的動機が失われ、「しないと批難されそうだから」みたいな消極的動機が支配権を握るようになるので、何をやっても達成感よりも先に疲労感が来るようになるというな。
精神がヤバくなる前兆として「楽しむ事に罪悪感を抱くようになる」というのがあるんだよな。何かが心に引っ掛かってるあまり、常に「これはサボリではないか?」と思ってしまい、何をやっても妙な焦燥感に焼かれてしまう。結果、苦役や罰に救いを見出すようになってしまいメンがヘラッてしまうというな
「他人に助けを求められない」という人間は、正確には「手を貸して貰う事による人間関係のアレコレが嫌/他人を信じられない」という側面が強い気がするんだよな。他人に対する諦観や不信のあまり、助けを求めた事によって苦しむ自分の姿を予見してしまい、結果「独りで苦しむ方がマシ」になるというな
自尊心が低過ぎる人間は、自分に価値を感じてないが故に他者に良くされる事に「何か見返りを求められる?期待/誤解されてる?」と居心地の悪さを感じてしまうんだよな。その為、敢えて人間から嫌われるような態度をとったり、自分を酷く扱う人間に近付いたりして、不幸になる事で安心を求めるというな
ADHDの先延ばし対策は「とりあえずタスクに着手すれば作業興奮でヤル気が出るけど、とりあえず着手する為のヤル気がない」というジレンマがあるけど、実は作業興奮はタスクに着手しなくても身体を動かせば起きるんだよな。それ故にタスクに着手出来ない時は、その場で手足をバタつかせればいいというな
「大人に怒られない」ことのみを志向して幼少~思春期を人生のチュートリアルと思って過ごすと、成人期になってもチュートリアル感覚が抜けないので、結果として朧気に「自分はまだ若い」という意識を持ちながらも自分の意志や希望を持たない、リアリティを感じる機能が壊れた生命体が誕生するというな
自己肯定感の低いメンヘラや陰キャ、人間関係が「相手を信頼しようとして依存する」か「自立を目指して孤立する」の2択に陥りがちなんだよな。「素の自分は嫌われる」的な強迫観念から、心の扉を適切に開く事が出来ず極端から極端に走ってしまい、人生で何度も激しい期待と絶望を味わい続けるというな
イジメは往々にして「集団の中で浮いてる人間を制裁する」為に行なわれるのだから、「みんな仲良く」「思い遣りを」「多少の違いは我慢」みたいな集団規範が強化される度に、逆に「あいつは我儘で思い遣りに乏しく仲良くする気がない!」として制裁=虐めを行う正当性が生まれるバグがある気がするな。
遊ぶ約束をした時は楽しみだけど当日になると面倒になったり、風呂は好きなのに入る前は面倒になったりするの、恐らく「やらなきゃいけない!という義務/拘束/焦燥感で萎えてしまう」のが原因と思うんだよな。勉強やる気になってる時に「勉強しなさい」と言われると、やる気が消失するのと同じ原理な。
ADHD人間達が、たまによく訴える「関心のない/嫌なタスクをやろうとすると日中にも関わらず強い眠気に襲われてシャットダウンしてしまう」的な現象、カナダの研究によればADHDの約85%が昼間の眠気や睡眠の悪さを訴えており、あれはADHD特有の生理現象な可能性が高いらしい… pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23643650/
人間に頼るのが苦手な社会不適合人間は、甘えるなと言われ過ぎたり迷惑がられ過ぎた結果、人間に頼ろうとするとフラッシュバックや葛藤や失敗予感で多大なストレスを感じてしまう傾向にあるんだよな。それ故に人間に頼る発想を持たず1人で抱え込むのが、ある種のストレスマネジメント化してるというな
陰キャにとって「社交する」というのは基本的に異常事態なので、社交するには人間と交流する時間以外に「心の準備の時間」も必要になるんだよな。その為、陰キャは社交中に普通に振る舞ってるように見えても、既に1定のMPを消費してる状態なので所々疲労が見えるし、終わったら家でグッタリというな。
自己肯定感の低い人間、本人としては「こんな自分だから。。。」と思って謙虚にしてるつもりでも、あまりにも過去の色々から地雷が多くなりすぎてしまい、結果として「許容範囲が極端に狭い」という形で理想が高くなってしまいがちなんだよな。「最低限でいい」と思いながら、完全を追い求めてしまうと
ADHDの「n時間後にやらなきゃいけないタスクがあると、その間は何も出来なくなる」現象って、実は「マルチタスクが苦手」で説明可能なんだよな。複数の事柄を意識して同時並行するのが苦手な故に「気にかけねばならない予定」があると、それを意識するだけで1杯1杯になり何も手に付かなくなるというな
真面目で優しいと言われる人間が大学や就職辺りで駄目になるのは、「大人に従うという処世術で社会やってきたが故に表と裏を使い別ける社交の経験値/知がない」からなんだよな。社交チュートリアルをやってないどころか存在すら知らないのに、当たり前のように本番が始まり、戸惑ってる内に全て詰むな
コミュ障が陥りやすいのが「有意義な事を言わなきゃ病」で、自身の劣等感から「会話では相手を笑わせたり関心させたりしないと」的な強迫観念を抱いてしまう。結果、唯でさえ会話苦手なのに更に「機を伺い過ぎて話せなくなる」「力み過ぎて滑る」事態に陥り、コミュ障に磨きがかかかってしまうというな
思春期以降に発達障害が発覚する人間は、最初から自身の困難を認識していたわけではなく、「あれっ?みんなは普通に出来るの?知ってたの?」みたいな小さな違和感の累積により、人生に多大な支障をきたしてから気付くケースが多い気がするんだよな。当然その過程でメンタルは既に☓☓になってるもよう