自己肯定感の低い人間、往々にして初対面の人間には好印象与えられるけど、人間関係で何か違和感抱いても「自分が悪いだけかも」と思うし、確認する事にも「相手に失礼かも」と罪悪感を抱くので、モヤモヤ解決手段が「人間関係リセット」だけになってしまい、関係が出来ては消えてく傾向にあるというな
小さい頃に挫折や恐怖を味わうデメリットは「チャンスを掴めなくなる」という機会格差にあるんだよな。自信のある人間はチャンスに対して「出来る理由」を探して積極的に掴みに行くけど、幼少期のあれこれで怯え癖のついた人間は「出来ない理由」を探してチャンスを尽くスルーするようになるというな。
1人暮らしの発達障害人間にとって最大の敵が「面倒臭い」で、これにハマッて面倒を放置すると更に面倒な事態に発展するので、早目に対処しないと「もういいや」という形で適応するようになってしまうんだよな。それ故に1度堕落するとQOLはマッハで下がっていき、人生自体が面倒の塊と化してくというな
発達障害人間の生き辛さの1つには確実に「集団行動が苦手」というのがあるけど、だからといって「単独行動が得意」というわけではないのがミソなんだよな。確かに1人は気楽だけど、人目が無いとサボリ/先延ばし癖が止まらず生活や仕事が段々と雑になっていく。QOLを自分では保てない面があるというな。
他人に気を遣い過ぎるコミュ障は「適切な距離感」や「地雷」が分からないが故に過剰に気を回すようになったので、人間に「もっと楽にしていいよ?」と言われると、大体は最悪のタイミングで気を抜いて最悪な失敗をやらかしてしまいがち。他人への過剰な気遣いはコミュ障の自己防衛術でもあるというな。
優しい人間ほどコミュ障になりやすい傾向があって、ガチで優しい人間は相手に不快な思いをさせるのは嫌なのを通り越して、「相手に不快な思いをさせる可能性がある」こと自体に強烈な忌避感を抱いてしまうんだよな。他者への思い遣りや内罰性が行き過ぎて、他者と関われなくなってしまうというな。
自己肯定感の低いコミュ障、過去の色々で「調子に乗ると傷付くぞ」と叩き込まれてるが故に、人間と仲良くなると「自分は相手に好意を抱いてるが相手もそうとは限らないし、だとしても自分の☓☓な部分を見て嫌いになるかも」と不安が湧き、何故か友達と言える段階になってから変に恐縮しだすというな
他の事が気になってタスクに集中出来ないADHDがやるべきライフハックは「作業に不要な物をスペースから排除する」1択で、「他の気になる事をやる」という選択肢自体を潰す。例えばスマホはタスクに不要なら別の部屋に置く。自分はこれを実行した結果、タスク中に頻発に部屋を出入りするようになったな
「辛い時は辛いと言う」事が出来るのは強者の特権で、弱者は往々にして「ギリギリのプライドや意地で自分を踏み留めてる」「周囲に信頼出来る人間がいない」が故にSOS発信が困難になってしまうんだよな。例えば虐められっ子にとってイジメ以上に「虐められを認め告白する」がキツイ場合もあるというな
「自分の問題は自分で解決しろ、甘えるな」というけど、実は「甘える」というのは「自他の力量を見極めて適切に助力を求める」という技能の1つなんだよな。問題は「他者を頼ること」ではなく「他者への頼り方」であり、適切に負担を外部に分散させる事も「自分の問題を自分で解決する」営為だというな
対面が苦手なコミュ障がlineやSNSなら上手にコミュニケーションとれるとは限らなくて、真のコミュ障は文字ベースでも返信する際に「この文面だと感じ悪い?これだと馴れ馴れし過ぎ?これだと…」と悩みまくってる間にタイミングを逃してしまい、1人で勝手にダメージ受けたり後悔する傾向があるというな
1般人の「行けたら行く」は遠回しな断りの文句だけど、ADHD人間の「行けたら行く」は「是非行きたいし今のところは大丈夫そうだけど、もしかしたらタスク先延ばしで締切がヤバくなったり忘れている予定があったり体調不良になったりして行けなくかも」的な意味なので、わりと普通に来てくれるというな
「陰キャは陽キャが中高辺りでやっていた事を大学〜社会人になってからやりだす」「陰キャは陽キャのブームにn週遅れでハマりだす」的なインターネットでよく言われる話、「発達障害人間の精神年齢は実年齢×0.6である」という仮説で完全に説明出来てしまう地獄がある気がするな。
自己肯定感の低い人間は必ずしも自己評価も低いとは限らなくて、むしろ自己評価の高さで自己肯定感の低さを補ってる場合もあるんだよな。その手の人間は自己評価=存在意義なので、自己評価に傷が付くことを恐れて過ちを認められなくなるし、その不安からマウンティングや他罰傾向が強くなるというな。
ADHDの不注意/先延ばし癖とASDの凝り性/完璧主義が合わさると、少しの失敗でも完璧に出来ない自分に嫌気が差してヤル気消滅で中断し、そのまま再開せず傍目には全て投げ出してるように見えるのに、それが頭に引掛り続けていて焦燥/罪悪感も合わさりメンタルがガリガリ削られる地獄が誕生するというな。
社会不適合人間のスポーツ嫌いは、往々にして「身体を動かすのが嫌い」ではなく、「皆の前で不器用さや遅れを晒して叱られたり嘲笑されたりするのが嫌」なんだよな。スポーツの楽しさ云々以前に、体育の授業等で「運動=苦痛」の図式が頭に叩き込まれており、パブロフの犬的拒絶反応が起きるというな。
自己肯定感の低いコミュ障、苦手な人間とは適切な距離感で上手くやるけど、好きな人間と仲良くなってくると「自分は相手の事を仲良いと思ってるけど相手は自分の事を…」「好いてくれてても自分の☓☓な面を知れば…」と不安に襲われて、何も問題ないところで奇行に走って自爆してしまいがちというな。
インターネットのサクセスストーリー、大体は「太い実家」「理解のあるパートナー」「謎の支援者や金やコネ」が出てくるんだけど、これは逆説的に「現代日本において成功するには何が必要か?」を表しているんだよな。つまりそれらを持ち合わせず努力してる人間はサクセスする事なく消えていくというな
弱者は往々にして誰からも注目されず、その苦難を「自業自得」と切り捨てられ、助けるメリット無いと思われてるからこそ弱者なんだけど、それらを解決するには注目や同情を引ける魅力や、相手に利益を与えられる強者になる必要があるんだよな。弱いから助けて欲しいけど、助けて貰えるだけの強さがない
ADHDが短期的タスクをネガティブに見積もり過ぎると、しばしば「“間に合わなかったら”の不安や焦燥と向き合うのが怖くて、手遅れにする事で不安や焦燥から解放されようとする」というバグが起きたりするんだよな。嫌な予感/不確定性に耐えられぬあまり、自ら予感を現実のものとして確定させるというな
自己肯定感低いコミュ障の飲み会の何が辛いって、自分が放置される事ではなく「相手が自分を気遣ってくれてるのをメタ認知してしまう」事なんだよな。その申し訳なさから「嬉しい/楽しい事を伝えないと!」と力み過ぎて滑ってしまい、それをメタ認知して。。。と申し訳なさが際限なく募ってくというな
人間はヒューマンエラーをする度に対策として、「手順を間違えない」「集中力を切らさない」「物事を忘れない」「疲労しない」「眠くならない」「常に神経/注意を張り巡らせる」みたいな事を要求されるので、段々とヒューマンエラーを防ぐ為にヒューマンではなくなっていくというな。
ADHDの「ToDoリスト」を管理するコツは「楽しみや息抜きの予定もしっかり書き込む」事なんだよな。これは「休憩も予定として大事」という側面もあるけど、それ以上に「必須タスクばかり書いてるとリストの確認管理自体が苦痛になる」事が問題。無理な事に対処する為の対策が無理になってしまうというな
自己肯定感の低いコミュ障、納得出来ない事や嫌な事があっても「自分の方が変かも?」と思ってしまいその場では言い出せず、帰ってから「やっぱり相手の方が…」とモヤモヤを反芻するものの、相手にやはり言い出せたいしモヤモヤは残り続けるしで解決法が「人間関係リセット」しかなくなりがちというな
陰キャの特徴は「称賛を素直に受け取れない」で、数々の挫折経験や悪意によって「調子に乗ってると思われるリスク」「他者からの期待値が高くなる(幻滅される)リスク」が骨身に叩き込まれている為、人間から誉められるとある種の防衛反応として謙遜や自己卑下や自己否定の言葉が出てしまうというな。