社会適合人間がイキイキと人間関係出来る秘訣に「愛され慣れ」がある気がするんだよな。社会不適合人間が「自分なんかが関わっていいのか?迷惑では?」と悩んでウジウジしてる間に、当然のように輪に入って馴染んでいく。社会不適合人間と違い、人間から愛される事に罪悪感や恐怖を抱かないというな。
陰キャが叱責された時に怒りや悲しみの感情を浮かべず、曖昧に笑うのは「甘やかされてきた」からではなく「甘やかされてこなかった」からなんだよな。自分の意思・感情を肯定されず否定ばかりされてきたので、怒りや悲しみをどう表現していいか分からない。結果、曖昧に全てを濁すしかなくなるというな
自己肯定感の低いメンヘラ、人生の艱難辛苦を「鈍感」になる事で乗り越えようとする傾向があるんだよな。それは痛みに晒され過ぎた事による精神の摩耗であり、学習性無気力だけど、××な人間達は「色々と甘えてる」と解釈し「人生経験が足りない」みたいに詰めるので、更に摩耗してく構造があるというな
社会不適合を起こしがちな真面目人間に見られる特徴が「人を頼らない」ことなんだよな。頼れば何とかなりそうな場面でも、人を頼る事への罪悪感/面倒さ/気まずさ/拒否されたり怒られる恐怖etcが嫌過ぎて、ヤバいと分かっていても取り繕わず「手遅れになるまで黙って耐える」選択をとるしかないというな
メタ認知だけ発達したコミュ障、親しい人間が出来ても「自分は相手の事をオンリーワンとして好意を抱いてるが、相手にとって自分はワンオブゼムでしかない」という温度感の差に怯えて、ビクビクと相手に接する内に微妙な距離感になって気まずくなってしまい、終いには疎遠となってしまいがちというな
小さい頃に「優しい良い子」と呼ばれた人間、往々にして自己主張が苦手なので他者には自分の希望や志向や苦手や地雷等はあまり理解されないけど、「必要であれ他人を傷付けられず、Noと言えない」だけは他者から完璧に理解されるので、平然と(気付かず)他者から色々踏まれる立場に陥りがちというな。
Twitterではたまに「不平不満ばかりで努力せず益を提示出来ない人間を救う必要あるのw」みたいな言説が流れてくるけど、これこそ正に「弱者が手を差し伸べられるには強者になる必要がある」パラドックスなんだよな。極論、救う事に益があり同情の対象になりうる人間は、その時点で「持つ側」だというな
抑圧的/ヒステリック/毒親の子供、往々にして「そうしないとあたられる!」という恐怖から「親の顔色を伺い先回りして機嫌をとる」癖がつきがちなんだけど、当の親はそれを「自分の愛情が伝わった!」と認識するので、本人的にはトラウマを「素晴らしき美談」として周囲に吹聴される傾向があるというな
空気は読めるコミュ障、往々にして空気が読めるからこそ自分が浮いてる事が分かって辛くなるし、神経を張り詰めさせてるから心身の消耗が激しいし、空気を思い返して「あの時はこう言っとけば良かった」と後悔に苛まれるし、しかもそうやって発言タイミングを伺ってる内に会話は終わってしまうというな
NO!と言えない人間は、押しに弱かったり、物凄く寛容以外に「面倒臭がり」というパターンもあるんだよな。怠惰故に要望を受け入れる事による面倒よりも、NO!と言うことで発生する雰囲気/口論/損益調整/交渉といった「目先の面倒」に耐えられず、YES!と答えて長期的な面倒を抱え込んでしまうというな。
「環境のせいばかりにして努力しない人間」は、往々にして「努力から逃げてる」というより「努力しない方が合理的」な状態なんだよな。努力が報われた経験が乏し過ぎる&失敗=即死な環境下で、安心して努力出来ず報われる気もしないと「どうせ駄目なら何もしない方がマシ」が合理的判断になるというな
自己肯定感の低いコミュ障は「自分は他者に嫌われる」という思いが強過ぎて、相手に関わる事自体に「時間と労力を奪って申し訳ない」的な罪悪感を抱いてしまうんだよな。結果、相手に自分から話し掛けたり誘ったりする事が出来ず、見知った仲でも段々気不味くなり、人間関係が出来ては消えてくというな
ADHDのタスク遂行術として「タスクが溜まったら即効で書き出す」というのは非常に有効で、これの最大の利点は「タスクの忘れを防げる」事でも「タスクの優先度付け/整理がしやすくなる」事でもなく、例の「手遅れになってるのが怖くて見通しを考えたり確認出来ない」状態を予防/緩和出来る事だというな
「タスク着手を先延ばしするのに、いざ着手すると妙に凝り出して終われない」人間は、完璧主義ではなく「何が肝要か分からない故に完璧でないと不安」人間なので、予め「タスクの最低ライン」を見定めておくのがお勧めな。着手出来ないのも、終われないのも根は「見通しの立たない不安」にあるというな
ADHDの「先延ばし癖」と「努力の持続が必要な課題を嫌う」という特性が合わさると、「先延ばしていたタスクが手遅れ1歩手前の大変な事になってて滅茶苦茶努力しなきゃいけなくなる可能性が怖すぎて確認や着手を先延ばす」という自滅バグが出来上がるというな。
美男美女はInstagramやり、喋れる人間はYouTubeやり、リアルで仲間がいる人間はFacebookやってるので、Twitterには必然的に「美男美女でも喋れるわけでもリアルで仲間がいるわけでもないが、とりあえず国語は無勉でも比較的よく出来た」的な社会不適合人間ばかりが集まる悲しい構造があるというな。
人間関係リセット癖のある人間、往々にして最初は印象良いんだけど、それは「自分は嫌われる」という恐怖故に必死に取り繕ってる面があるんだよな。それ故に1見社交的かつ明るく見えても会話が終わった後は疲労でグッタリだし、それを表に出せないしで、ある日キャパを超えて全てから逃亡するというな
「朝ご飯を食べる子は成績がいい」「ピアノを習ってる子は勉強出来る」的な言説、研究が進むにつれて「それらは単に実家の太さの基準であって行為自体は学力に関与しない」ことが明らかになったの、良い悪いは別にして学歴が事実上「生まれによる身分制度」として機能してる事を裏付けているというな。
自己肯定感の低い人間、行動の軸が基本的に「自分がやりたいからヤル」ではなく「やらないと周囲から何を言われるか分からないからヤル」なので、如何に努力して成功して評価されても達成感は味わえず、ただ疲労感だけが残るんだよな。常に自分でない何かに行動を指示/強制されてるような感覚。
小さい頃に「真面目で良い子」と呼ばれた人間、往々にして幼年期は優等生とされるので「自分は他の人間より賢い/進んでる」的な意識を持ちやすいんだよな。しかし、成長するにつれて段々と「優等生しか出来ない」うえに「そこまで優等でもない」事が明らかになっていき、落第人生が幕を開けるというな
ADHDの予定が崩壊する最大の理由は先延ばし癖だけど、それ以外にも「何かを思い付くとそれで頭がいっぱいになる」という面もあって、これが合わさった結果「先延ばして予定がヤバくなってる時でも何か気になってしまうとそっちにコミットしたり、上の空で何も手につかなくなる」地獄が生まれるというな
実はコミュ障こそコミュニティはガチ勢を選ぶべきなんだよな。何故ならエンジョイ勢的な緩いコミュは「楽しくコミュニケーションする」事自体が目的なので、当然にコミュ障は役割が得られず浮いていく。逆に目標がある集団は、例えコミュ出来なくても目標にコミットしていれば仲間と認められるというな
ADHD人間、やる気になりさえすれば直ぐ終わるタスクであれ感情次元では「滅茶苦茶面倒臭い大ミッション」と捉えてしまうので、ダラダラしていても頭の中は義務感や焦燥感でいっぱいであり、結果として先延ばして好きな事やってたにも関わらず「何も出来なかったし色々と疲れた」的な感想が残るというな
発達障害人間、往々にして空気を読んだり社交的に振舞ったりする事は出来なくはないんだけど、それは感覚ではなく「定型発達人間の感情や会話のパターンを分析して、それに沿うよう意識的に言動をコントロールしている」ものなので、1見問題なさげに思えても、MPの減る速度は通常の3倍以上だというな。
コミュ障は会話において文頭に「まぁ」「ん〜」等、常に断言や言い切りを避けて留保を残す傾向があるので、テキスト上のやり取りでは文末に「…」「〜」「ー」等をつける頻度がメッチャ高く、チャット等でそれらを封じられると途端に陸に打ち上げられた魚の如く、何も言えなくなってしまうというな…。