障害のある方に対する偏見や差別意識が強ければ強いほど、病気や怪我で障害のある側になった瞬間、自分自身を苦しめることになる・・という事実だけは一応お伝えしておきますね。
社会の「当たり前」を見直せば、能力を発揮できる人って沢山いると思う。6時間労働だとバリバリ働ける人、昼寝すれば仕事に集中できる人、昼出勤だと能力を発揮する人、静かな部屋だと集中できる人‥などなど。「人類、皆同じ。」という固定観念、そろそろ辞めてみませんか?
「持ってくるのを忘れました。次は気をつけます‥。」と学生から言われたので、「気をつける‥という根性論よりも、ラクして持ってこれる方法を考える方が大切だよ。とりあえず、iPhoneならSiriでリマインドしてみたら?」と答えた。後日「Siriのおかげで持ってこれました!」と満面の笑顔。良かった。
「怒鳴りつける指導」は、単に怒りに任せて怒鳴っておけば相手が萎縮して言う事を聞くので、「指導がうまい」と錯覚する。自分が錯覚するだけならまだしも、ある意味成功体験なので、他の人にも強要する。そして、それが伝染する。まさに負のループである。
何回も言うけれど、学校でうまく適応できないからって、社会に適応できない訳ではない。学校でうまくいかなくても社会で活躍するケースは山程ある。少なくとも、子ども達の未来の可能性を、大人が「社会で通用しない」という負のレッテルを貼って潰すことだけは避けるべきだと思うんですよね。
「困難さに配慮する必要性は分かるけれど、配慮しないと動けない子になりますよね?」と言われた際は、「配慮を受けて『出来た!』という成功体験を積めば、本人に意欲が生まれ、むしろ自ら動く様になります。発想を変えて、自ら動くための配慮をしてみませんか?」と伝えると、意外と納得頂ける件。 twitter.com/i/web/status/1…
障害があると「頑張る」という部分がクローズアップして美化されがちだけど、他の人が当たり前に出来ることを頑張って出来る様になったとしても、自尊心は正直上がりにくい。他の人が当たり前に出来る部分は頑張るのではなく、何らかの代替手段を活用しながら「頑張らずに」出来る経験が大切だと思う。 twitter.com/i/web/status/1…
私は人の顔と名前が覚えられない。苦肉の策で、名刺交換の際に「私、どうしても顔と名前を覚えられなくて‥。次お会いした際にまた名刺を渡そうとすると思います。その際は、無礼をお許しください‥。」と先に謝る様にしたところ、本当に忘れても笑い話にして頂ける様になったんですよね。対策は大事。
「友達100人出来るかな?・・出来ません。大切にしたい人を大切にして、それ以外の人とは適度に付き合いましょう。傷つける人からはそっと離れましょう。そうしないと精神病みます。」と学生に伝えている。自分はこの呪縛から脱却するのに時間がかかって苦しんだ人なので、敢えて伝える様にしている。
息子がスケートボードを習い始めた。教室の方針に「挨拶はしっかりとする」と書かれていたので、大きな声で挨拶をするのかと思いきや、挨拶がまさかのグータッチ👊。なるほど、これなら声が出せない子でも挨拶ができるし、自然と笑顔が生まれる。「挨拶=大きな声」は思い込みだなと痛感した出来事。
障害のある人を取材した番組って、「出来ないことが努力で出来る様になる」という部分が美談としてクローズアップされがちだけど、それって多くの人にとっては必要ない努力な訳だし、テクノロジーや制度を活用して「努力なしで出来る様になった!」の部分がクローズアップされて欲しいんですよね。
スーパーで意識を失って倒れた後、買い物をしていたお客様の中に看護師さんがいたらしく、痙攣の状態を把握して救急車を呼び、救急救命士に私の状態を伝達してくれたとカルテの記録で知る。御礼をご本人に直接言えないのは辛いですが、この場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
ADHD(不注意性、多動性、衝動性)の話をすると、「私の方がひどい。それって甘えじゃないの?」と言われる事がありますが、注目すべきはこうした症状の程度ではなく、症状により生じるストレスを受け止める「キャパ」に個人差がある部分なんです。ここって意外と見逃されがちな部分なんですよね‥。