「僕は遅刻しても叱りませんし、必ず笑顔で迎えます。遅刻してしまうと授業に行く気力がなくなると思うのですが、それでも授業に来れたことは本当に凄いこと。だから、遅刻しても諦めずに来てくださいね。」と伝えた。気圧が変動し精神的に不安定になる6月だからこそ、配慮の大切さを痛感している。
ごはん→汁物→おかず→牛乳・・と一口ずつローテーションする【三角食べ】を子供達に強制するケースによく出会いますが、食材が口の中で混ざる事が苦痛な児童にとって三角食べは恐怖でしかない。三角食べを含め食べ方は自由だし、そもそも食べる楽しさを教える事を忘れてはいけないと思うんですよね。
障害体験って「障害のある人はこんなに辛い」の様に、人に対してネガティヴな意識を植え付けがち。それよりも「こんなところに自販機があったら、車椅子ユーザがジュース買えへんやん!」的な、社会にあるバリア(障壁)に対してツッコミを入れ、解決策を模索する経験の方が大切だと思うんですよね。
「大きな声で話しなさい!」と怒鳴られ、萎縮して余計に話せなくなるケースは多い。大きな声で話すことを他人に強制する人っているけれど、小声でボソボソ話す人の方が優しそうで話しやすいし、それも一つの魅力。価値観の押し付けで個性を壊す指導って、どうしても「勿体ない」と感じてしまうのです。
書字に障害があり、頑張れば字を書けるけれど、逆に言うと過度に頑張らないと字が書けないAさん。そんなAさんの担任から「iPadを渡し、タイピングで書く練習をさせたところ、『作文が楽しい!言いたい事がありすぎて何を書こう‥』と笑顔で言ってくれたんです!」という話を聞いた。素敵なエピソード。
学校現場で「特別扱いはできない」という理由で、一方的に合理的配慮を拒まれる(話し合いの機会すら拒まれる)ケースは残念ながら未だに残っている。学校は「特別扱い」というけれど、障害や困難さにより1人だけ他の子供達と授業を受けられない状態そのものが「特別扱い」だと思うんですよね。
障害のある人に対する配慮って、「苦しさや不便さの解消」に着目されがちですが、「他の人と同じ様に楽しめない」という部分を解消することも同時に大切だと思う。苦しさや不便さが解消されても、他の人と同じ様に楽しめなければ恩恵が少ない。「楽しむための障壁を解消する」って、実は大切だと思う。
学校で障害のある子に対する「お世話係(お世話係的な声かけを含む)」って、本当に辞めた方が良い。お世話する側は「なんでお世話しないといけないの?」となるし、される側は「なんでお世話されないといけないの?」となる。インクルーシブ教育どころか、両者の間に壁が生まれるだけなんですよね。
補足・・子どもが主体的に関わることを批判している訳ではありません。6年生が1年生を・・も別の話です。「お世話」というワードと、ワードに含まれる感覚の話です。
今まで聞いた中で好きな実践。聴覚障害があるAさんがいるクラスで、子供達から「みんなでカルタをやりたい。でも、普通に読んだらAさんが聞こえないから、(読み札を)テレビに写して欲しいです。」と提案されたというもの。提案した子ども達もすごいし、こういう雰囲気を作った教師もすごい。
「講義を休みたい時は、嘘をついてズル休みなんてする必要ないよ。まぁ心配にはなるので『USJ行ってきます!』とメールを送ってね。」と学生には伝えている。体調不良になりやすい人って実はかなり多く、休暇を保障するだけで安心して働ける。 「安心して休める社会」って、必要な気がしませんか?
市長という立場の方が「障害の社会モデル」を認識して市政に携わっているのは、実は画期的なことだと思う。障害は人ではなく社会に存在するものであり、障害を解消することは、全ての市民にとってメリットがある。この視点で市政をするとどう変化するか、専門家の立場と明石市民の立場から注視したい。 twitter.com/izumi_akashi/s…
不登校の子供達の気持ちを理解する事って、本当に難しい。大人は子供に気持ちを聞こうとするけれど、子供が自身の気持ちを理解できない場合もある。「何故学校に行けないのだろう‥」と本人がモヤモヤしているのに、「なんで来れないの?」と強引に理由を聞かれるのは、きっと辛いと思うんですよね。。
障害のある子の保護者に対して、「配慮を徐々に減らし、配慮なしで生活できる様にしましょう。」と伝えるケースがある。でも、それって「目覚まし時計を使わずに朝起きれる様にしましょう。」と一緒。むしろ、出来ない事は配慮や支援を受けながら、様々な事にチャレンジする方が大切だと思う訳です。
講義の最後に「質問がある人は挙手してください。」と言っても、手が挙がる確率は低いし、挙手しても特定の人だったりする。そこで、「今から立ち歩いて周りの人と話し合って良いので、質問を考えてスマホからチャットで送ってね」とお願いしたところ、積極的に質問が来た。質問しやすい環境って大切。
我が家では、感謝はするが「手伝い」という言葉を使わないルール。共同生活をする限り家事は分担するもので、皆が得意なことを担当すれば皆がhappyになる。少なくとも、息子が将来結婚した時に、パートナーに「家事、手伝おうか?」「日曜、子供預かろうか?」系を言わない大人に育てたいんですよね。
障害や困難さのある子に対して「困り感を解消しましょう!」というのは確かに大切ですが、子供からすると「何に困っているのか分からない‥」のが実情。つまり、困ることすら出来ていない部分が問題な訳で、原因不明な慢性的なしんどさを言語化する部分から丁寧に始めていくのが大切だと思うのです。
学校での合理的配慮って確かに大切だけど、本人の「学びたい」ではなく、大人の「学ばせたい」が前提になっている気がして仕方がない。
意図のない「怒鳴る指導」は、単に怒りに任せて怒鳴っておけば相手が萎縮して言う事を聞くので、素人の指導者がやってしまいがち。(誤った)成功経験が積み重なるため、「指導がうまい」と錯覚する。早い段階で気づけばまだ良いが、錯覚したまま怒鳴る指導を続けると大変な事になるんですよね。。
「辛くない?」と聞くと「辛くない」と返ってくる。「大丈夫?」と聞くと「大丈夫」と返ってくる。こう答えておけばラクだし、相手が心配せずに済むから。こうしてストレスが蓄積されていき、気づいた時には大変な事になるんですよね。。
勝負に負けるとすぐにキレてしまう知的障害のあるAさん。毎回癇癪を起こすけれど、その度に彼と【作戦会議】を開いた。ある日、「コソッと帽子を叩きつけたらラクになるかも」と呟いたので、イライラしたら隠れて帽子を叩きつける実践を繰り返した。すると、徐々に怒りをコントロールできる様に‥続く
「障害当事者のための機能的なファッション」ではなく、「機能的でかつ流行するファッション」を生み出すためのパリコレ挑戦。あと少しで夢が実現しますが、挫けそうになる事も‥ どうか、私達の活動を応援して頂けませんでしょうか?皆様のいいね・RTが力になります。 応援、宜しくお願い致します。
発達障害がTwitterのトレンドに上がっているので強調しますが,診断は苦しさの原因を本人が把握し,様々なリソースを使って苦しさを解消し,前に一歩踏み出すためのものであり,決して人にレッテルを貼るためのものではないことを強調しておきたい。
「ADHDだから出来なくても良い」という免罪符的な誤解が、ADHDで悩んでいる人を責める風潮にならないで欲しいと心から願います。配慮を受けて前に進もうと必死で頑張っている人が報われる社会であって欲しいのです。
フランスは8月になった瞬間にバケーションに入る企業が多い。本当に仕事関係の連絡は一切できなくなる。つい「マジか・・」と思ってしまうが、この発想が日本人的なのだと思う。休みがあるから仕事に対するモチベーションが保てるし、「休み」の必要性について、もっと真剣に考えないといけない。