人権概念は個人尊重を出発点として、複数の個人の集まりとしての社会性を考えるものです。 子供以前に、大人の問題として「私が大切」を獲得させてもらえなかった人がたくさんいることもひしひしと感じます。
本来なら「内部留保に課税します」といえば済むところを、企業からたくさん献金をもらっている政党が与党をやっているから、インフレどころかスタグフレーションで苦しむ庶民にしわ寄せが来ている。 再分配のシステムが崩壊しているんだよね。 twitter.com/ozawa_jimusho/…
例えば、この性別役割固定のこの話になると必ずと言っていいほど出てくるものが、「自分の方が大変だ」といった言葉や感覚です。 少し冷静になって考えればわかりますが、仕事の上で大変なことと、家事や育児に参加しないことはまったく別個の問題です。
それらに乗る形で自己防衛しても、それは社会的に他者から、女性から信頼を得られるものにはなりえないでしょう。むしろそれは、自己憐憫的なあり方として敬遠されるものとなってしまうのではないでしょうか。 目の前にあるものを見る。 まずはそこからです。
そのように無意識に対人関係理解に「上下」が組み込まれてしまう。 (人によってはそこに依存してしまう。「なぜ自分がわざわざやってやっているのに感謝されないんだ」のように)
asahi.com/articles/ASQD2… 今回の事件で、社会的に取り組まなければならないことの第一にあげられるのはこれだと考えます。 保育士の配置基準の問題です。 記事にある写真をみていただければわかりますが、これが保育士の配置基準です。
今回の事件でも、園長の制止を振り切ってまで当局に報告した保育者がいたことは、まさにそれを証明しているといえるでしょう。 今回の件の唯一といっていいほどのよい点が、そのNOの言える保育者がいたことだと思います。 そうした良心と行動力を持った保育者がいたことは、いろんな意味で救いです。
(本当は落ち度があってからかわるんじゃだめなのよね。 問題発覚してからでなく、普段から業界内部から批判が起こって自浄的に変わるのでなければ、社会的には専門職と認めてもらえる日はこないのよ)
◆抑圧、自己犠牲の代替としての「感謝」 ブラック企業における「ありがとうを集める」は今や有名だろう。 過重労働や低賃金の状況を、他者から感謝されるという「気持ちの問題」で補填するという行為がそこにはある。