だから「いい人なのにまさかそんなことをするなんて」という文脈で記事にするのはナンセンスです。 >「昭和の熱血教師のような」 >愛車に生徒たちを乗せてお台場や江の島にドライブすることもある一方、泣きながら叱るような厳しさも見せていた >本気で泣きながら叱ってくれた
DVや性加害の難しいところは、それが必ずしも当人の悪意から発されているわけではないことです。 認知の歪みなどから、本人の中でも「子供を思う気持ち」などにより正当化されて行われます。
#文春オンライン bunshun.jp/articles/-/547… こういうのを美談にしないで下さい。 美談として記事を作る人、美談としてそれを消費する人。忘れているだろうけれども、加害を受けて今後も苦しむ生徒がいます。 DVや性加害をする人は、他の面では「いい人」であることも少なくありません。
これがもっとも悪い意味で保存されてしまっているのが学校なのではないかとも感じる。 今日ちらっとみたツイートで「忘れ物をした子がいると連帯責任で・・・」なんてのがあったけど、連帯責任ってのがかつての軍隊の指導法だったわけで・・・。
今にして考えてみると、昭和の頃の大人ってだいぶおかしかったよなぁ。 すぐ感情的になる、暴力を振るう、性的な逸脱を恥とも思わない、マウンティングできることが格好いいと思えるetc. 社会的な意味での戦争後遺症のようなものがあったのかもしれないけど、いまも大きくは変わっていない感じもする。
よく知られる話かもだけれども、古代ローマ帝国が滅びた理由が度重なる蛮族の襲来や外敵ではなくて、奴隷身分から上昇できない制度に固定化したためと。 日本もこのままだと格差でどうにもならなくなるんじゃないかな。
チラ見して通り過ぎたが違和感に立ち戻って驚いた。 時給が下がることがあらかじめわかっているパート募集だった。 ちなみに東京都最低賃金が1041円。
【保育】「好き嫌い」ではなく あるベテランの保育士がいました。 その人が担任になると、それまでケガが多かったり、午睡時落ち着かなくて大変だったりして、応援の人手を何人ももらわないと日々がこなせなかったクラスが、必ず安定し落ち着いたおだやかな子供達になります。
インボイスの制度が本当にイヤなのは、所得が少ない方の自営業者から搾り取る制度になっていること。 話に聴くところでは、作業所やシルバー人材センターで働く人達にまで課せられると。 いまぎりぎりで食べていけている人や、自営で頑張っている人を突き落とすことになるのではないか。 twitter.com/kuriryuofficia…
>RT このオムツ持ち帰りの件なんか端的だけれども、保育ってド直球に「政治」案件なんだよね。 女性差別的な意味そのまんまの「女子供」な地域や議会だと、保育に予算はつかないので質は低いまま。 職員の意識も古いまんま。
「政治的なことを言うな」という空気ができあがる一方で、政治が家庭と子供に侵入しようとしている。 民主主義にとってこんな恐ろしいことがあるだろうか。 twitter.com/TR_727/status/…
2022/05/12 ◆子供を苦労させるという無自覚の子供蔑視 苦労させること、苦痛を与えることが教育要素であるとする感覚が、世の中には意識・無意識の内に無数にあるようです。 そこには子供蔑視がわかちがたくあります。
>RT 「素手でトイレ掃除」を子供達に行わせることで獲得させられるものは ・自尊心、主体性の芽をへし折ること ・イヤなものをイヤと感じる認知そのものを狂わせること ・自己犠牲を美徳化し滅私奉公のような価値観を内面化させること どれも全体主義やブラック企業に都合のよい人間形成につながる
SDGsの啓発って一歩間違えると「貧乏人は麦を食え」や「欲しがりません勝つまでは」と変わらなくなる。 つまり、庶民への服従訓練。 社会的責任のより大きな企業の責任を明確にしてから、個人の取り組みを求める順序にしないと。
◆抑圧、自己犠牲の代替としての「感謝」 ブラック企業における「ありがとうを集める」は今や有名だろう。 過重労働や低賃金の状況を、他者から感謝されるという「気持ちの問題」で補填するという行為がそこにはある。
日本の対人関係文化は、上下関係を前提として構築されているので、人と接する上で「他者を対等の人とみなす」という認識を獲得するのは難しい。 例えば、仕事の上などの利害関係のない人であったとしても、相手の立場や年齢の上下によって言葉使い(主語すら)が変わるという文化の中で生きている。
そのように無意識に対人関係理解に「上下」が組み込まれてしまう。 (人によってはそこに依存してしまう。「なぜ自分がわざわざやってやっているのに感謝されないんだ」のように)
「人として対等」という他者認識を持つためには、こうした素の対人関係理解を乗り越えなければならないので、日本の文化の中で人権意識の獲得はひとつハードルがあがっていると言える。
僕自身は、感謝とは教えられるものでも、植え付けられるものでもないと考えているので、どんなものでも「感謝の気持ちを持たせる」には欺瞞性を感じてしまう。 感謝にはしばしば、立場の上下を前提として想定されているものもある。(例えば「親に感謝」「先生に感謝」)
最近、というかこの4月に入ってからだけでも企業経営者や責任のある地位にいる人の失言のニュースをあいついで見たが、その人達に共通して見えるのが、人権意識の欠如感、よりうがった見方をすれば、対人関係=上下関係という認識の中で、自身が上であることを前提とした他者認識がうかがえた。
感謝を求めるメンタリティには引っ張られにくいのではないだろうか。 >相手が誰であれ立場がどうであれ、人と人として対等という認識 例えばそのひとつには、人権意識がある。
感謝を求めるメンタリティには、こうした自身の立場の追認(自己承認)の側面が透けてみえる。 他者への認識を、相手が誰であれ立場がどうであれ、人と人として対等という認識を確立している人であれば(つまり対人関係を上下関係としてとらえていない人であれば)、
しばしば、子供に「感謝の気持ちを持たせる」というのが教育や保育の目的になることも見かけるが、それが自身や権威への服従をすり込むことになっていないか検証する視点は忘れないようにしたい。
「感謝」ってのはモラルハラスメントが発動しやすいファクターなんだよね。 自己愛や承認欲求、支配欲求にネックを抱える人にとって、自己正当化したままマウンティングする口実になってしまう。 個人がそこにおちいるのはまだ同情の余地もあるが、国家がそれというのは度しがたい。