しかし、この本質にあるのは「個人の自由」なのです。 歴史を振り返ると、婚姻制度と性的関係を掌握することが権威、権力の根底に常にありました。
ついでだから、なぜ憲法24条が大事なのかざっくり書いておきます。 【第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない】 一見、婚姻について通り一遍のことが書かれているように見えます。 twitter.com/hoikushioto/st…
カルトにおいて家庭の持つ拘束力は大変魅力的で、「統合された家庭」のようなものが大好物。 だから家父長制に親和性が高い。 また、思考しない信者を獲得するために、主体性の剥奪が重要なので、主体性と密接に関わる政治ファクターである、憲法24条がお気に召さない。 ゆえに、改憲勢力ともなる。
カルト宗教の問題は、子育てと無縁じゃないんだよね。 「家庭」を狙い撃ちにしているから、子供、子育てや健康などのファクターで人をひきつけて取り込んでいく。 また、大学などのサークルで、我が子が宗教にいつのまにかどっぷりつかっているといったケースも。
本来なら「内部留保に課税します」といえば済むところを、企業からたくさん献金をもらっている政党が与党をやっているから、インフレどころかスタグフレーションで苦しむ庶民にしわ寄せが来ている。 再分配のシステムが崩壊しているんだよね。 twitter.com/ozawa_jimusho/…
washingtonpost.com/world/asia_pac… 日本の学校における頭髪指導、下着の指定についてワシントンポストで報じられています。 頭髪指導に関して、差別的であると表現されています。
「子供」「子育て」はすっかり市場原理に組み込まれてしまいました。 学童保育は民営化すればお金になるので、業者に下げ渡され、児童館はまったくお金にならないのでないものに。 それは少しも驚くことではなく、「社会福祉が嫌いな政党」をみんながずっと選挙で勝たせてきた必然的な結果。 twitter.com/Hinadori_Neko/…
#軍事費削って社会保障と教育費へ 近現代の歴史をみると、貧困だから軍備増強に向かう流れがあります。 そもそもの経済基盤を整える地力、財力、能力が欠如した結果そこに向かいます。 戦前の日本もそうでした。 もういちどその失敗を繰り返す必要はありません。
「駅前再開発」という“うまみビジネス”が地方を吸い尽くして東京にもやってきている感。 どこも自営の個人商店がなくなっていく。 それで失われるのは単にお店だけじゃなく、私たちの生活や職業選択の多様性。 そうなると一部の人以外、大企業傘下のチェーン店で最低賃金でしか働けなくなってしまう。
そもそも口を開くことすらできなくなってしまいます。 それらはその経緯ゆえに、もっと強い口調になることも当然あるでしょう。 こうして考えると、弱い立場にある人の口をふさぐトーンポリシングになる、そうした側面、可能性を「主語を大きくしない」は含んでしまっているといえるでしょう。
日本に侵略されたアジアの国の人達は「あなたたち日本人は」と語る必要があるし、 沖縄の人達は「あなたたちヤマトンチュは」と アイヌの人達は「あなたたち和人は」と また、女性の差別構造を訴える当事者は「あなたたち男性は」と使うことが許されなければ、
被差別者や、権力構造に対して弱い立場におかれている人に、「主語を大きくするな」を要求することが是とされてしまうと、その人達にその問題(例えばその差別)に与する人と、そうでない人の選別の労を負わせることになります。
一方で、主語を大きくしなければ成立しない言論というのも存在しえます。 端的なのは、被差別者がその差別構造を訴えるときです。 そうしたとき、「主語を大きくしない」というスタンスがある種のモラル、一般通念として成立してしまっていると、トーンポリシングとして機能してしまいます。
2022/06/08 ◆「主語を大きくしない」の違和感 「主語を大きくしない人が好きです」という言葉を見かけました。 その言葉は、昨今の流行のようでもあり、おしゃれでクールできれいでかっこいいです。「私はやたらと人を批判しない人ですよ」というある種の善人さもかもしだすことができます。
>RT 日本では「政治についての意見を言うのはよろしくない」という「モラル」が一般的な通念として流れているみたいだよね。 「政治についての意見」という看板だけど実際のところは「権力批判するな」なんだよね。 少なくない人が権威主義の中で自分の地位やアイデンティティを維持しているのかな。
美談にすれば、今後も学校の「治外法権」が続いてしまいます。 それでは子供と子供の教育、子供の命が守られません。
実際に仙台市ではこの後も、同様の事件が続きました。 また、美談化されてしまうことで、もともとこういった傾向を持った人が教員を志望するという自体をより招いてしまいます。 ただでさえ、子供を相手にする職業は、支配や承認欲求の暴走が起きやすい危険地帯です。
美談にしてしまえば、矮小化され再発してしまいます。 それが起こるのは、我が子にかもしれないのです。
2017年、仙台市の中学校で生徒がいじめと教員からの虐待で自死した事件でも、後に美談化され該当教員の復帰署名などが起こっています。 教員が口にガムテープをはった事件として覚えている人も多いかと思います。 sankei.com/article/201705…
覚えている人も多いと思いますが、2012年には「桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件」と呼ばれるものがありました。 この件では、被害生徒が自死しています。 しかし、このときも「熱心な指導で感謝している」などの美談化が行われました。 twitter.com/hoikushioto/st…
この記事について「生徒がいい教員だと言っている」を判断材料にしている大人の人がいるようだけど。 子供では判断できないことがあります。 特に、生徒から教員というのは子供の持つ信頼感ゆえに、不適切な行為があっても子供自身それが理解できなかったり、それを他者に伝えていけないと思うなど。 twitter.com/hoikushioto/st…
この文脈を真に受けた空気ができあがってしまうと、被害を受けた方が自他共に責められてしまうのではないかと危惧します。 本当に記事の消去も見すえて欲しい。 twitter.com/annaPHd9pj/sta…
もし、家庭の問題などで特段の配慮が必要な生徒がいるのであれば、個人的にそれをするのではなく職務として行う必要があります。 こうした状況を知りながら看過していたならば、それは学校組織の問題でもあるでしょう。
こうしたことを「よい教師像」のようにみなすのは危険です。 むしろ、これらは「もうヤバい」の兆候です。 自他境界のあいまいさ、子供をして自身の承認欲求にするなど、不適切な関わりの温床になりかねません。