「これがわかっていたら異性(同性でもいいが)との関係は恐れなくていいんだよ。この同意を取ることを恐れてしまうと相手の支配になるから、いちいちめんどくさくても、かっこわるいと思っても同意を確認すること。NOといわれたら拗ねずに素直に引くこと。これが相手の尊重につながるんだよ。
以下のことは前に息子と話した。 「人を好きになったり、性的な感情を持つのは自然なことで少しも悪くないんだよ。でもひとつだけ大切なことがあってね。それは性的に見る前に人格として見ること。その後で性的な関係になる場合もあるだろうけど、そのときは全てのことに相手の同意がいるんだよ」 twitter.com/hoikushioto/st…
ゾーニングって 「銭湯で風呂に入るのに全裸になるのはかまわない。 でも風呂の外では服を着る」 これだけの話だよね。 それに奇っ怪な屁理屈をつけて「外でも全裸でいさせろ」といわれれば誰だって警戒するよ。 twitter.com/hoikushioto/st…
僕にも子供達がいるけどこれがゾーニングされていないところにあったらいたたまれない。 娘は、自分は男性からそうした性的に見られる存在なのだと無意識に認識していってしまうだろうし、息子は女性を人格として見る前に性的に見ていいのだと誤学習してしまいかねない。 twitter.com/PgqKfJeApCWUAt…
町おこし、村おこしに東京の企画会社が来てほんの一瞬だけ盛りあがって潤うのはその会社だけ、そういうのに一体何度食いものにされたら気がつくんだろうといった話をはるか昔なにかで読んだなとひっかかってたのだけど、思い出した。たしか、中島らもの『こらっ』だった気がする。 繰り返される歴史。
ブラックフェイスがコメディから出てきたように、差別は、実のところ娯楽と密接な関係がある。 娯楽と差別が結びついてしまうと、人々はそこに差別のあることに鈍感になってしまう。 また、娯楽を守ろうとして結果的に差別を守ろうとしてしまう。
この広告方法は性加害が含まれており、あきらかに性差別だと言えるでしょう。 また、性のモノ化以外にも、表象の搾取という問題もあります。 男性目線で「女性」という表象を自分の都合の良いように作りかえるというある種のグロテスクさがこうした問題には付随します。
性差別のひとつに「性をモノ扱いされる」があります。 近年では一般化している、モノの擬人化(女性化)という表現方法はその逆の構造になっており、それそのものが性差別でないとしても性差別をカジュアルに浸透させる呼び水となるリスクを持っています。 twitter.com/colabo_yumeno/…
他の国では「あなたが変われば社会は変わる」「あなたは社会を変えられる」と教育の中で学んで行くのだけど、日本では「あなたは無力だから社会を変えられない」と刷り込まれてしまうんだよね。 「今はまだ社会はそうできていないから」と考えるとずっとそれが維持されてしまう。 twitter.com/hibari_n_kokor…
◆学校の「感謝」文化の異常さ 先日子供の小学校の運動会に行ってきました。 そこで学校のあり方への大きな不安を感じました。現在の公立学校の教育ではこれからの社会に必要なものは得られないでしょう。 それは、自主性や主体性を持った人格を育むことと正反対のことをしているからです。
民主主義を揺るがす大問題ですよ。政権与党がプロパガンダ、情報操作をやっているのだから。 民主主義を守るためには政権交代が必要です。 tokyo-np.co.jp/article/136538
◆モラハラ構文 子育てにも関連するのでここで書いておきましょう。 ・誰のおかげでメシが食えると思っているのだ ・子供のくせに生意気言うな ・稼げるようになってからものを言え これらは対話ではありません。
子供の通う小学校では、道徳の授業で人権を「思いやり」として子供達に教えていました。 これは人権を、感情による属人的なもの、相対的なものとしてミスリードするものです。明らかに間違っています。 しかしながら、こうした理解を大人でも持つ人は少なくないようです。
◆怒鳴る側の問題 子供に対して怒鳴るのは、本当は「子供を前にすると自分の感情を制御できなくなる大人の問題」として存在しています。
5,子育てを自己犠牲で組み立てない 「私を大切にすること」 これは誰にとっても必要なことです。 子育てする大人も自分を大切にしていいのです。
4,我が子といえども一人の他者 家族なので他人ではないですが、我が子も他者です。 自分の一部でも、自分の延長でもありません。 こうして言葉にすれば、おそらく百人の内、百人の人が「そんなことは当たり前」と思うかも知れません。 しかし、現実にはなかなかこれが難しいのが子育てです。
3,ホモソーシャルの価値観に気をつける これまでの男性中心主義的な価値観は、こうしたウィークネスフォビアや自尊心を傷つける関わりをある種の文化として内包し形成してしまっている側面があります。
ストレートに考えれば、「私がイヤです」「私は困ります」と伝えればいいところを、「私」が埋没しているためにあえて子育てとしてリスクの高い、存在の否定というアプローチが一般化してしまっています。
小さな子供の子育ての中でカジュアルに使われている自尊心を傷つける行為でもっとも端的なのは、疎外(仲間はずれ)を使うものです。 「言うことを聞かないなら置いていきますよ」 「そんなことをする子は家に入れません」 「赤ちゃん組にいきなさい」
2,子供を育てるのに自尊心を傷つける必要はない 僕の世代では、相手を発憤させるためにあえて強いいい方をして成長させようとするという他者への関わり方が一般的にありました。
それが問題なく作用することもありますが、その価値観の中で優等生になれなかった人が自己否定に向かい萎縮や自己肯定感の低下に向かうこともあれば、その中で比較的優等生であった人が自分より劣る他者、ウィークネスを抱える他者を否定的にジャッジしたり、見下すメンタリティを持つ場合があります。
1,ウィークネスフォビアで育てない ウィークネスフォビア(弱さへの嫌悪)。これまで子育てには、さまざまなウィークネスフォビアからくる価値観が当たり前のごとく含まれていました。
【子育て・保育】子供にいじめをしなくていいメンタルを持たせる方法 パラリンピックの件があまりに頭にきたので、荒削りなのは承知で勢いで書きます。
例えば、できないことは悪いことだ、弱いのは悪いことだ、泣くのは悪いことだ、嫌がったり逃げるのは悪いことだ、勝つのがいいこと負けるのは悪いこと、1番にならなければならない、やるといったことはやり抜かなければならないetc.
【保育とジェンダー】 男性保育者は、しばしば男性であるがゆえに不信の目を向けられます。しかし、現実にこうした事件が存在する以上それは当然のことです。 それを乗り越えていくために必要なことは「私はそんなことはしない」と主張することではありません。 twitter.com/asahi/status/1…