きしもとたかひろ(@1kani1dai)さんの人気ツイート(新しい順)

問題児だと思っていたのに家庭環境や障害などの隠れていたストーリーが見えた途端に支援の対象になるのって、謎が解けたみたいでドラマチックなんだけど、そのストーリーがなければ悪者のままってことだよね。ただその子にしんどさがあるから支援するでいい。その支援のために原因を見つけていくだけ。
grapeコラム最新話です。 何回言ってもできないことを分かっているのに怒ってしまうことがあって、それはお互いにしんどくて、少しでもそのしんどさが減っていけばいいなと思いながら書きました。 grapee.jp/1037409
褒め方に悩んだ時に僕が気をつけたいこと 褒める、というのを「やる気を出させたりもっとやってもらうためにおだてるもの」ではなく、「自分ができていることを自分で気づけるための声かけ」にしてみる。
自分が怒らないでいられるのは、できた人間だからというわけではなく怒らなくてもいい環境にいるからだということを忘れずにいたいな。怒らなくてもいいはずの場面で怒ってしまう人を見たときには、そうせざるをえない環境にいるのかもしれないと思えたらいいな。怒りたくて怒ってるわけちゃうもんな。
子どもが嘘をついていることに気づいた時のことを書きました。 正しい答えとしてではなく子どもたちとの関わりで抱く葛藤を共有する気持ちで書いている連載です。 chanto.jp.net/childcare/prim…
「生きる力」って、知力や体力や人間性より前にまず「生きようと思えること」なんじゃないかな。それは耐える力ということではなくて、うまくいかなくても力がなくても自分には生きている価値があると感じられること。生きていようと思えること。それを与えずとも奪うことがないように気をつけたいな。
保育の専門性というのは、子どもを重い通り動かしたり子どもの能力を伸ばしたりすることではなく、子どもの権利を保障することなんだよね。子どもの権利のなかのひとつに「育つ」があって、それを促すというよりかは保障するの。手を加えるのではなく、邪魔にならないようにそのための環境を整えるの。
自分に言い聞かす
「その子のために厳しくした方がいいのかな」と悩んだ時にぼくが気をつけたいこと
「学童に行きたくないと言っている」と保護者から相談を受けたけれど、ほんとかなあと悩んだときの話です。 正しい答えとしてではなく子どもとの関わりで葛藤したことを共有するつもりで書いています。 よかったら同じように共有する気持ちで感想もらえたら嬉しいです。 chanto.jp.net/childcare/prim…
社会を生き抜くためのその時代に合った教育という言い方をするけれど、僕はその時代にあった子どもを育てるんじゃなくて、その子どもたちにあった社会を作っていきたいな。誰も取りこぼさない社会って、その社会に人々を適合させるんじゃなくて、多様な人たちに社会が適応していくことなんだと思うよ。
子どもに「怒られる!」と身構えられて落ち込んでしまうことがあるので、気をつけたいことを整理しました。 ・約束ではなく、「声をかける時の基準」を決めておく ・怒るのではなく、気づくための声かけという共通認識 ・反省を促すのではなく気づけたことを喜ぶ ・お互いが余裕を持つためにする
【子どもが途中で投げ出したときに、ぼくが気をつけたいこと】 投げ出さずにやめないでほしいし、ちゃんと片付けをしてから次に行ってほしいと思ってしまうけれど、余裕があるならこんなふうにもと思ったりします。4枚目は子どもを見守りチェックシートを合わせてみました。
子どもが安全に育つために必要なのは「気をつけて見張る」でも「よく言い聞かせる」でもなく「気をつけなくても大丈夫」にすること。 手の届かない場所に置く。落下しないように柵をつける。指を挟まないようにカバーをする。飛び出さないようにハーネスをつける。のびのび育つために大事なことだよ。
子どもを好きになれなくても、ひとりの人として大切にできればいい。愛情よりも人権を。職場も一方的に情とか仲間意識とか言われるよりパワハラやサービス残業が無いことの方が大切にされていると感じるもんね。ごまかしちゃいけない。大切にされていると感じられることが、愛情を感じることだと思う。
子どもの思いを大事にって話を聞いて「人権も大事だけれど他にも大事なものがあるでしょう」というのはもちろんそうなんだけど、それらも含めて大事にするためにまず守られなきゃいけないのが人権なんだよね。 その上で、それぞれの関係を理解してそれぞれの役割を大事にできる方法を考えたいよね。
「子どもが全然言うことを聞いてくれないな」と大人が思っている時、子どももまた「大人は全然言うことを聞いてくれないな」と思っているのかもしれない。思ってないかもしれない。
自分で決めてやったけど失敗したり上手くいかなかった時に「自分で決めたんだから」と責任を負わせて反省させるよりも、「やってみたけど上手くいかなかったね」と一緒に結果を受け止める経験を重ねる方が、主体性と責任感は養われると思う。責任が罰にならないよう、またやってみようと思えるように。
ごめんねが言えなくてもいいよ。ありがとうが言えなくてもいいよ。嘘をついちゃってもいいよ。忘れ物してもいいよ。ご飯残してもいいよ。ピーマン食べられなくてもいいよ。それはね、なんでもかんでも許せよってことではなくて、まずダメって言わずその子をそのままの姿をまずは受け入れようってこと。
「ごめんなさい」が言えない子との関わりで、僕が気をつけたいこと
grapeのコラムが久々に更新されました。 数えきれないくらいしている後悔の話だけれど、書いているうちに少し前向きな気持ちになれました。よかったら読んでもらえると嬉しいです。 grapee.jp/1022347
「人格を否定しない」と合わせて、善し悪し関係なく「人格を評価しない」ことも大事にしたい。真面目だからできたんだね、優しいから助けてくれたんだねと、良かれと思って褒めたつもりの言葉が、その子の人格を決めつけるものになっているかもしれない。ただ「できたね」「助かったよ」でいいんよね。
「怒ってはいけない」ではなく、「怒るのは子どもにも自分にもしんどいことだから怒らなくてすむ環境や方法を見つけていけたらいいな」と思えたらいいなと思うし、そういう余裕ができるような支援をしたいな。良い子育てとか悪い子育てとか評価するのではなく、しんどくないか辛くないか見ていたいな。
自分の配慮が足りなくて傷つけてしまったのに、そのあと上手くいったことを「分かり合えた」とか「心が通った」とか言って美談のようにしてしまいそうになって、そうじゃないだろうっていつも思いとどまる。そうやって気持ちよくなってたらまた同じことを繰り返して、それに気づけなくなるんやぞって。
仲が良いはずなのに「あの子には来てほしくない」と言った子の話を書きました。 正しい考えというよりは、その子と関わって感じた葛藤を共有するつもりで書いています。 chanto.jp.net/childcare/popu…