この手の話してると、また短絡的な人が『編集者不要論』をぶち上げたりしそうだけど、不要なのは『一部の困った連中』であって、大多数の真っ当に仕事している編集者は、それが地味で真っ当な仕事であるが故に話題にならんのです。 お間違えなきよう。
編「太陽って百憶年後には白色矮星になるんですよね!」 私「ああ、そうらしいですね」 編「その時代を舞台に一本ラノベ書いたら新しいでしょ! 僕の担当にそうアドバイスしたんですよ!」 私「いや、どんな舞台でどんな話やるんすか」 編「はは、それを考えるのが作家の仕事でしょ?」
『初手は否定しとけば~』ってのは深く考えたり練習したりしなくても、知ったその日から簡単に(真似)出来る『プロ仕草』なんですよね……だからそりゃ広がるわなと。 twitter.com/game_sennin/st…
もちろん、相手によっては『断言して欲しい』『黙って俺について来い』的な指導が嬉しい人もいるだろう。 だから私が知る限り、本当に有能な編集者はその接し方を創作者ごとに切り替えていた。 下手するとアイデンティティが揺らぎそうだけど、その人は本当に洒落にならない位に徹底してプロだった。
なので、きちんと理路整然と、改善点を第三者にも分かる方法で指摘できる編集者はこちらから金払いたい位に有能だし、それが出来ないなら、その自覚をもって担当者に『強制』しない人はまだありがたい。(『コレは強制では無いですが』と明言する)
ぶっちゃけ、専門学校や大学の学部でもそういう姿勢の人間は居るだろう(というかいた) だから私は生徒さんに何らかの問題点を指摘する場合には必ずきちんとした理屈を添えるし、最終的にそれを受け入れる受け入れないは自由だから、とも言う。
編集者に限らないけど、創作者に対してきちんとした考えもなくダメ出しをしたがる人はあちこちに居る。 だが筋が通ったダメ出しでないなら、単にマウントとって悦に入りたいのか、あるいは『仕事したつもり』になりたいだけか、それとも本当に真摯に作品をよくしたいと思っているかの区別がつかない。
こういう事を公言する編集者が居るから、「とりあえずなんでもいいからダメ出ししておけば、原稿の質が上がる」とか何の考えも無いでふわっとしたダメ出しをする編集者が居なくならないんですよ。漫画も小説も。ダメ出しに責任を持てよと。>RT
風呂敷は広げるより綺麗に畳む方が難しいんですがなかなか伝わらないというか「最後まで書いて畳んだ事がない」人はわからないのかもとも。 ちなみに大雑把にですが私はどの作品も『落とし所』はなんとなく最初に決めて企画作ります。途中で調整はするしお客さんの反応も見ますが。 twitter.com/misakijun/stat…
昨日の「新人賞のあらすじ」に追加してついでに。 私が選考委員やってた時にも『あらすじ/梗概』と応募者の履歴書、原稿、意外に『設定書』だの『挨拶』だのをつけている人がチラホラ居たけれど、募集要項に無いものを付けるのは百害あって一利無いと思った方が良いです。
なので、あらすじをきちんと最後まで書ける、というのは、 「さんざん言われている、最後までオチを書くという『レギュレーション』に対応できる」ことの証、 と同時に 「自分の作品を理屈で理解し把握できているから、編集者と二人三脚で改善していけます」ということの証、 であり、 そのアピール。
商業作品の裏表紙とかにある「あらすじ」は、お客さんの購入意欲をあおるためのものなので、オチまで書いちゃうと台無しだが、新人賞とかに添付する「あらすじ」、いわゆる梗概は、全体を自分で作品を俯瞰して見られているか、作品を『支配』しているかの判断基準になる。
文章は書けば書くほど上達するといわれてる。 なので、そこを見るよりも(むろん、文章力はあった方がいいけど)、ちゃんと『物語を書く』という事の本質がわかっているか、つまり自分の書いている物語の根本、構造、といったものを、自分でちゃんと理解しているか、というところが問題になってくる。
新人賞の選考において、あらすじを読む選考者は、何を思うのか。 彼ら(商業出版編集部の編集者及び彼らに雇われている下読みや選考委員)は商業デビューしてレーベルを支えられる人材を探しているのだから、『完成度』よりも『将来性』を見ている場合も多い。
新人賞とかに添付を要求される「あらすじ」について。 本当に、いつまで経っても、説明しても、「オチを書かない」「あらすじ」を書く人が出てくるけど。 ぶっちゃけ、あれ、なんのためにつけろと言われてるか、理解してる人あんまりいないのでは? (いや、私も推測でしかないんですが)
これも同じ友人から聞いた話だが、人間の快楽的感情のうち、肉体快楽に直結しないものの中で最も大きい悦びが得られるのは『ザマァみろ』という感情であるらしく、そりゃ復讐ものが王道としてエンタメに残る訳だわなと。(本当にそうなのかまでは検証してませんが)〉〉
昔友人が言ってたが。 『近親相姦を多くの宗教やつ法律が禁じてきたのは、禁じないとやっちゃう困った奴らが一定数出ちゃうからで、生物として見た場合にそう変態的、異常な嗜好では無いのでは』ってのが有ったが(勿論遺伝学的には大問題) 復讐とか仇討も同様と考える事は出来て。〉〉
つかみが大事、最初の三行で興味が惹かれなければ読まない、というのは確かにあるけども。(特にラノベは。なろう系だと更に極端) アニメでもアバンタイトルだけで見るのやめちゃう層が一定数居ると聞いたことがあるし。 でも最初の三行を、『最初に』書かなければいけないなんて誰も言ってねぇです。 twitter.com/game_sennin/st…
これもキャラクター創造論で書いたけど。 基本、最低限お話を回す為に必要なキャラの数は、三人だという話がありまする。 主人公。協力者。敵対者(対立者)。 大抵はこの形に落とし込める(勿論、一部、例外はありますし、回想の形でしか出てこない対立者とかもありますが)
世界設定について。 いわゆるファンタジーが流行るのは、現世の世相が不況だの情勢不安だので辛い時に、非日常の象徴とも言うべきファンタジー世界を描く事でひと時でもしんどさを忘れる為、という説がありまするが。 あんまり世界設定をリアル寄りにすると、『非日常故の楽しさ』を損いかねない。
よく『クチだけのクリエイター志望者』の表現で『遊んでる様に見えるかもしれないが俺様は今、新作のネタを練ってるのだ!』的なのを見かけるけど。 実際には『遊んでてすら仕事の事を完全に忘れる事ができない職業』なんだよな....
否定による設定は、このコンセプトに言及しないので、役に立たない、という事なのだろう、と私は先述の作家氏の言葉を理解している。
つまるところ一問一答で答えていく訳でもないのなら、設定とは『何もかもを端から端まで決めておく』事ではなく、『コンセプト』という、迷ったり新規に質問が来たりした場合に、『このキャラはこういうコンセプトの作りなので、ここからこう判断できる』という、判断の芯、基準があるかないかになる。
実際には多くの否定文は定義として機能してない。仮に二択の様なものであったならまだしも(死者ではない、なら生者になる)、たとえば鳥ではない、だけなら獣かも魚かも、あるいは機械かもしれない訳で。
前に知り合いの作家に言われて、ずっと覚えている事があって。 『キャラ設定にせよ世界設定にせよ、否定文で定義してはいけない』 素人さんの設定にたまに見るが、『ヤンキーではない』とか『気が強くは無い』とかそういうやつ。 書いた本人はきちんと定義しているつもりなのかもしれないけど。