普段はものすっっごく丁寧で穏やかで礼儀正しい人が、手術直後にせん妄になって別人のように暴言を吐いて大暴れし、のちほど嘘のように元に戻る様子を見て、我々は慣れているので全く驚きはしないが、ご家族の方などは驚いてショックを受けるかもしれないな…と改めて思う。
あえて言うまでもないけれど、「かつて自分がした辛い体験を後輩にはなるべくしてほしくない」と思う人が多い場所では後輩は働きやすいし、「かつて自分が体験したのと同じくらい辛い思いを後輩にも味わわせるべきだ」と考える人が多い場所では後輩は働きづらい。
仕事ができる人は「時間配分が上手」「優先順位の設定が適切」といった特徴がある一方、所作そのものはむしろゆっくりで、余裕を持って動いているように思う。 できる人の真似をしようとして仕事を「素早く」やろうとしてもなかなか上手くいかないという。
Twitterは140文字の厳しい制限があって、基本的に「言葉足らず」なんですよね。その「足りない部分」は受け手が自分の解釈で(勝手に)補う。 予想もしない形で受け手に解釈されても、「なるほどあなたはそのように”不足”を埋められたのですね」くらいに思える人がTwitterを続けられるのかなと思う。
前にも書いたけど、自分が新人だったころ本当に頼りになる先輩といえば、仕事ができる人よりむしろどんなに忙しくてもテンションが安定していて機嫌の良し悪しがない人だった。 現場に慣れない後輩と仕事をする機会が多いこの時期、必ずこのことを思い出す。
以前、ことあるごとに反医療的な発信を繰り返すメディアの方とお話ししたことがある。 その真意を問うと、「医療界に巣食う悪を駆逐したい。善良な医者の助けになりたい」と善意に溢れ、驚いたことを覚えている。 正義感に突き動かされた時ほど、視野を広げ、自身を客観視しなければと実感した経験。
教えるという行為はとても難しく、「1」教えるには「10」知っている必要があるし、「分かりやすく教える」だと「100」くらい知っていないと難しいかもしれない。 教わる側には同じ「1」に見えても、背景知識の豊富さによって記憶の定着は違うと思う。
読書が苦手な人は「読書とは書いてあることを全て理解するものだ」と考えがちのように思うけど、実は読書家でも本を隅々まで理解できることはたぶん多くなく、「理解できるところだけサラッと読み、いつかこれを理解できる日が来るのだろうかなどと思いながら終える読書体験」もあっていいんですよね。
そのあと少し歳を重ねると、今度は「その手の逆張り識者は常に間違っている」という正反対の揺り戻しが来た。「あの頃オレは斜に構えていた」という別の「斜に構え方」に変わっただけだった。 今は、こういう過去を自省的に振り返れるくらいには落ち着いてきたように思う。
そういえば学生時代、何となく世の中に対して斜に構えていた時期があり、「常に通説の逆張りをする識者」に強い信頼を置いていた。権威に媚びず忖度なしに真理を語る(ように見える)姿に心を熱くしたのだと思う。 今となっては恥ずかしいが、そういう経験は早めにやっておく方がいいとも思う。
Twitterなんかやって何が面白いんだと言われることは未だにあるのだが、今や学会公式ですらTwitterを駆使し、有益な情報交換を行う時代。もう随分前からTwitterは「やるかやらないか」ではなく、「どのようにやるか」のフェーズに入っていると感じる。
この時期、新しい環境に進む子どもたちに言葉を送るなら、「友達をたくさん作ろう」よりは「やりたいことを見つけよう」の方がいいかなと思っている。 その「やりたいこと」に「友達をたくさん作る」が含まれている人と、そうでない人はいると思うし、人それぞれ好む生き方は違う。
経験値が増えると「仕事が素早くできるようになる」よりも、「やらなくてもいい仕事を見抜けるようになる」が大きいし、「分からないことが分かるようになる」よりも、「分からないままでも困らないことが見抜けるようになる」が大きいと感じる。
どれほど自分の考えが偏っていてもSNSでは必ず仲間が見つかるし、少数派の連帯感ゆえ、”偏っているほど”仲間は強く賛意を示してくれる。 この心地良い環境に身を置き、自分で物事を考えるという「しんどさ」から解放され、さらに取り返しのつかないほど偏っていく。SNSの怖いところ。
がん治療で困ったときは、まずがんの専門医に洗いざらい相談してほしいし、これは何度も何度も書いているけど、相談される側は正論を真正面からぶつけるのではなく、まず「相談してくださってありがとうございます」と笑顔で頭を下げたい。 相談すれば救われる、そういう安心感がないと変わらない。
もちろん治療選択は個人の自由で、第三者が口を挟む権利は全くない。ただその選択は「十分な情報が提供された上でなされたものであってほしい」という強い願いがある。 例えば、代替療法を行うと(標準治療との併用でも)予後が悪くなるというエビデンスなど、以下の本が分かりやすいのでオススメ。
藁にもすがる思いで、科学的根拠のない高額な商品に頼るのも自然なことで、「やらないよりはいい」という発想も自然。 だが、効果の確かな治療に専念し、大切なお金と時間を旅行や美味しい食事、趣味などに使った方が治療に前向きになれることが多く、その点では「やらない方がいい」とも言える。
努力家で真面目な人ほど、病気になった時に「病気を治すためなら金は惜しまない」と大枚をはたく決意をし、周囲もそれを全力で支援しようと奮起することはよくある。 だからこそ、健康保険制度の整った日本では「効果が確かな治療ほど安い」という事実を発信し続ける必要がある。
「手術のときにお腹の脂肪もついでに取ってもらえませんか?」 という質問は医療現場の”あるある”なのですが、これが実は難しい、という話を関西風お好み焼きにたとえて説明してみました。 diamond.jp/articles/-/297…
「食事しながら話す」というのは実はすごい技術で、咀嚼、嚥下、発声、呼吸という複雑な動作を口という単一の器官のみを使って同時に行う。 「むせる」とか「食べ物が口からこぼれる」とかが”たまにしか起こらない”のは奇跡とすら思えるし、高齢になるとこの複雑な動作が難しくなるのも自然に思える。
"trust but verify"のいいところは「何もかも全て疑え」ではない点にあると思っていて、「誰かを信頼すること」のハードルはひとまず低めに設定しておく方が心の安寧には繋がるし、その一方で「真偽の検証を行うまで防御姿勢は崩さない」という落ち着きは身を守るために大切、ということ。
前も書いたけど、“trust but verify(信じよ、されど確認せよ)”という格言はいつも頭の片隅に置いている。 あらゆる情報に関して「ひとまず信じてもよいが決して真偽の確認は怠らない。確認できるまで判断は保留にし、行動には移さない」というリテラシーは重要だと思う。情報が入り乱れる時は特に。
さらに難しいと思うのが、「なぜ勉強が必要なのか」が分かるのは勉強してからずいぶん時間が経ってから、というところで、学校で勉強したらすぐに何かの役に立つわけではない。 大人になって「何も勉強していなかったら大変なことになっていた」と過去を振り返る時、心底勉強の大切さを知る。
「勉強」の難しいところは、「なぜ勉強が必要なのかは勉強してからでないと分からない」という点にあって、勉強しない限り「勉強など必要ない」と容易に言えてしまう。 「価値はよく分からないが年長者がいいと言うのだからひとまず勉強してみるか」と素直に思えた人のみが勉強の価値を知るという。
やってる人は少ないと思いますが、私は夜中にトイレに起きた時、片目をつぶってから電気をつけて用を足し、電気を消したのち再び目を開けて寝室に戻る、というのをやっています。 片目の暗順応が維持されるので、真っ暗でも見やすい視野が保てて移動が楽です。 diamond.jp/articles/-/295…