小児科医坂本昌彦先生の記事、とても大切です。 『「一瞬でも目を離さない」「気を付けよう」という具体性に乏しい掛け声だけでは事故予防に繋がりません。』 『子育ては目が離れるもの』 『大切なのは具体的な方策』 news.yahoo.co.jp/byline/sakamot…
"血液型不明" が話題のようですが、近年は出生時に血液型検査を行わないことが多いですし、医学的には自分の血液型を知っている必要はありません。 ましてセンシティブな個人情報である「他人の血液検査の結果」を知っている意味も特にないように思います。 diamond.jp/articles/-/280…
緩和医療学会発行の「がんの補完代替療法クリニカル・エビデンス」によれば、代替療法を受ける患者さんの61%は主治医に相談せずに受けているとされています。打ち明けたら怒られるのでは、といった不安があるのかもしれない。 だからこそ相談してくださった貴重な機会を大切にしなければと思います。
「〇〇でがんが消えた」といった科学的根拠のない民間療法の広告や雑誌の切り抜きを持ってきて相談してくださる方は時々いますが、そんなふうに伝えていただけることを心からありがたく思います。 怪しげな情報を信じて病院に来る機会自体を失ってしまう方とは、会って話すことすら叶わないからです。
部下に厳しく当たり続け、それでもなお「彼は平気そうだから大丈夫」と言って攻撃をやめない人が昔いた。 心を壊す人は「壊れる寸前」まで「平気そう」に見えるものだし、何より「平気そう」という推測の確からしさをなぜそう純粋に信じられたのかと思う。 他人の心の内は分からない。大前提だと思う。
相手の話を聞いて自分の考えを変える「準備」ができている人としか議論は成立しえないものと思っていますが、これはもちろん自戒でもあって、誰かと議論するときには「自分の意見を変える準備」が必要、と思うわけです。
「自分の意見を全く変える気がない人」とは議論は成立しえないので、他人の考え方を受容できる余力を1ミリも感じられない相手に時間と労力をかけるのは割に合いません。 自分の人生は有限で貴重なので、「あきらめ」は早めでいいんですよね。
他人にあまりイライラしない人は、性格的に寛容というより、いつも「背景に自分の知らない事情があるのかも知れない」という事実を謙虚に受け入れていると思うし、何より物事をよく知っていて情報収集力に長け、「知らない事情」そのものも少ない傾向はあるように思う。
昔、父に分からない言葉を質問したら「辞書を持ってきてここで引きなさい」と言われ、何度も辞書を引かされていた。 当時は嫌々やっていたが今は感謝している。 良かったのは「知識が増えたこと」より、「分からないことを分からないままにするのが気持ち悪いと感じるようになったこと」にあると思う。
「学校で学ぶことの大切さ」を思い知るのは、大人になってから「学ばなかったら一体どんな恐ろしいことになっていたか」に想いを巡らせるとき、なんですよね。 学ぶことによってこそ、自分の身を守ることができる。
中学の理科の教科書は大人になってから見ても本当に素晴らしくて、誇張抜きに、将来トンデモ科学に引っかかるリスクを下げてくれると思う。
オススメは、下の写真のような「通院セット」を作っておくことです。 ここに、お薬手帳や診察券、保険証、各種医療証、過去の検査結果などをまとめて入れておきます。 急な症状で慌てて受診するときも、これをカバンに放り込めばOKです。 medical.jiji.com/topics/1879
7歳の男児が登校中につまずき、首から下げていた水筒が地面に対して垂直になった状態で、お腹に突き刺さるように受傷し、すい臓が断裂した事故がありました。 日常の思わぬところに危険が潜んでいることを実感します。 小児科学会が公開しているInjury Alertからの紹介です。 diamond.jp/articles/-/309…
Twitterは、少数の偏った意見があたかも巨大勢力の一つに見える錯覚があったり、フォロワー数やRT数のような分かりやすい数的指標で正しさや信頼性を評価しようとすると恐ろしい誤解に陥るという問題があるのだが、いわゆる「嘘を嘘だと見抜ける人」にとっては超絶便利という、なかなか難解なツール。
「他人に小馬鹿にされた記憶」って時にぐっさり心に残っているもので、言った本人が全く覚えていない一言でも、相手に消えない心の傷を負わせていることがある。 このリスク、わりと取り返しがつかないので、軽く考えてはいけないと思っている。
専門的知識を持たない知人から「この治療は危険だから受けるな」「病院に行かず〇〇で治せ」という誤った助言を受け、それを信じた結果健康を害しても、その「知人」が助けてくれるわけではない。こうして辛い思いをした末に病院に来る方を多く見てきた。信頼できない情報ソースには本当に注意が必要。
例えばお腹が痛い時に「そこにある臓器の不調かも」と考えるのは今では自然ですが、まるで「機械の一部分の故障」のごとく病気を捉える発想は歴史上かなり新しく、18世紀後半のモルガーニの提唱以後徐々に浸透しました。長らく人体は神秘的な存在で「体液の不均衡」が病気の原因とされていたためです。
SNSなどで一般にウケやすい発信者の特徴として、「物事を単純化するのが上手い」という点が挙げられる。単純に見せれば納得感を与えやすく、支持も得やすい。 一方、複雑な知見を正確に解説しようと骨を折る人は、誠実なのに「なんか分かりにくい」と敬遠されやすい。悩ましい問題。
学生時代は、自分の弱みは年齢と経験を積み重ねて克服できるのだろうと無垢に未来を信じられたが、ある程度歳をとると、特に性格上の弱点はおそらくこれからも「克服」はできず、うまく「付き合っていく」ことが肝要なのだと気づくようになる。 いわば前向きなあきらめ。
番組の収録では、 「科学的根拠のない危険な医療本や週刊誌の記事を信じてしまう方はいらっしゃるが、実はその背景に標準治療への疑念や医師への不信感が隠れていることもある」 と私は話しました。 その意味でも、「その情報のどの部分に共感できますか?」という問いは大切だと思う。
#フェイク・バスターズ では扱われていませんが、個人的には「新聞に掲載された書籍の広告」も相当大きな問題を孕んでいると思います。 新聞に載っていたら信頼できそう、と考える人は少なくありませんが、むしろ科学的根拠の乏しい本が非常に多いのが新聞広告だと思います。 diamond.jp/articles/-/307…
「そんないい加減な本,信用できるわけないでしょう」 「標準治療が一番いいに決まってるでしょう」 などと真正面から否定した瞬間,信頼関係は壊れてしまう。 相手は自分の目の前から去り、他に「自分を肯定してくれる誰か」を探すでしょう。 「否定」や「糾弾」だけでは何も生まれない。
志段味図書館の勉強会で、 「この勉強会では、どんな意見を持った人でも、スタッフがそれを否定したり無理に違う本を読むよう勧めたりはしていない」 という話、非常に大切。 そして参加者に対するスタッフの 「どこが一番共感できますか?」 という言葉は本当に大切で、見習うべき問いかけだと思う。
病気の不安に襲われている時に冷静な判断が難しいのは当然で、藁にもすがる思いで「自分の希望を肯定してくれる本」を探してしまうのも当然のことだと思う。 医療者側はそうした心理を理解した上で、少しずつ歩み寄る姿勢が大切だと感じる。 #フェイク・バスターズ
今回も出演致します。 この番組は今回で6回目ですが、何か「悪者」を糾弾するのが目的の番組ではありません。 情報が溢れすぎたこの世界で、私達はどのようにして上手に正確な情報を選び取ればいいのか。そういう手法、考え方をみんなで一緒に話し合っていこう、という趣旨の番組だと思っています。 twitter.com/NHK_PR/status/…