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@dayukoume そもそも、何が〈私〉なのだろうか。実は、本作では主語が示されていない点が重要である。主語を示さず、「我思う」といった現象から、我…即ち私を消去する無主体論の立場をとる小梅氏は、意識状態の記述に於いては〈私〉という人称を不適切とし、It rains.のような非人称表現を重視するのだ。傑作。
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@dayukoume ・小梅氏と無主体論についての補足
〈私〉は、哲学に於いて暗に前提される事が多い概念です。デカルトの「コギト」などは典型的な例ですね。
ですが、小梅氏の作品は主語が存在しません。「我思う」の「我」が自明視されるデカルトへの批判が小梅氏の思想に暗に現れている事は自明でしょう。
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@dayukoume 不可知論の立場では、神について、“知ることが出来ない”とする。嘗て不可知論の立場を取っていた小梅氏だが、宗教的体験を果たし、“知った”。だが、オットーによると、「聖なるもの」との邂逅は不合理性を孕むのだという。知っても“理解できない”…それでも小梅氏は、「不合理故に我信ず」のだ。傑作。
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@dayukoume マス・メディア上に現れる主体は、マス・メディア的イデオロギーにより初めて可能になり、そぐわぬ者には圧力が加えられる。アルチュセールのイデオロギー論を援用し、〈テレビイデオロギー〉の分析を行った小梅氏は、そこに存在する“実力主義イデオロギー”を発見し、それを畜生と非難したのだ。駄作。
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@dayukoume 「備えあれば患いなし」は、孔子が著した『書経』の一節だが、この一節に対し小梅氏は大胆な解釈を行う。そう、「報・連・相」だ。『書経』に於ける「備え」を報連相と解釈する小梅氏は、東洋古代思想に於いて既に報連相精神が育まれていたと指摘し、その精神が未だ根付かぬ現代社会を畜生と嘆くのだ。
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@dayukoume 視姦を行い、客体の裸体に対し、「まなざし」を刻印するのび太さん。客体へのエロティックな欲動を満たす為の感覚は当然、視覚のみに止まらぬ。フロイト的エスからの「タッチタッチ」という、触覚から欲望を満たさんとする呼びかけに対し、超自我による制御を失ったのび太さんは遂に畜生に堕ちたのだ。
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@dayukoume 台風の消滅に伴い生じる〈わたし〉の消滅。何故、こんな事が起きるのだろう。先日、三人称の死を一人称の死へと還元した小梅氏は、更に、世の一切を非人称へと…謂わば西田哲学に於る主客未分の純粋経験のように…還元する。〈it〉という非人称的な場から小梅氏は、だんだんと消滅してゆくのだ。傑作。
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@dayukoume アリストテレスが「人はタウマゼインによって哲学を始める」と述べたように、驚き(タウマゼイン)は、古代ギリシャに於いて「哲学の始まり」と看做されていた。人生を驚きの連続と看做す小梅氏は、焼き鳥を食す際にすら「焼き鳥は畜生だったのか!」と一口毎に驚き、まいにちを哲学するのだ。駄作。
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@dayukoume 自由民権運動により人権概念の拡張が行われた頃、同様に動物の権利拡張を求める運動がレーガンやシンガーらの思想家により展開された。動物を商品として消費する社会に対し疑念を抱く小梅氏は、ペットショップの近くに引っ越し、反対運動を堂々と展開し、遂に店を一つ潰してしまったのだ。大問題作。
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@dayukoume 不安を分析したハイデガーは、非本来的状態にある現存在がその事を漠然と自覚する事が不安に通じるのだと説いた。後輩芸人達の「不安」を分析した小梅氏は、後輩らにとっての非本来的状態の現前(リアル)が小梅氏自身であると悟り、彼らを本来的存在に戻す為、不安を齎す者として生きる事を決めたのだ。
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@dayukoume またしても「死」についての作品。本作で小梅氏は、「死にかけ」ている。思想家バタイユは、「死なずに死ぬ」、「部分的な死」、といった表現を好んで用いていた。生物学的死とは異なる主体の解体(死)を、陶酔に結びつけたバタイユの影響を受けた小梅氏は、幾度となく“死なずに死ぬ”のだ。傑作。
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@dayukoume 歌を歌う際、腹から声を出す「腹式発声」が推奨される事が多い。だが、本当に「腹式発声」が歌を歌うに最適な発声法なのだろうか。従来の定式化された発声法に対する観念を解体し、再構築する小梅氏は、「膀胱式発声法」を提案し、明文化され難い身体知の可能性を極限まで探るのだ。近年稀に見る駄作。
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@dayukoume 度々議論が起きる“嫁論争”。ビアンカフローラのジレンマ…デボラを加えればトリレンマ…に陥った小梅氏は、ドラクエのプレイを断念してしまう。「結婚しない」という選択肢が与えられない点を大胆にも非難する小梅氏は、他作品の世界に逃げ込み、皮肉な事だが…小梅氏の“ユアストーリー”を生きるのだ。
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@dayukoume ちなみに私はビアンカ派です。
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@dayukoume 『監獄の誕生』を描いたフーコーは、パノプティコンのモデルに着想を得て、不可視の他者の眼差しが社会領域に於いて我々を規律化し、支配しているのだと指摘した。インスタ映えの手段に用いられるタピオカを、適切に食す事が規律化される…小梅氏は、タピオカランドもまた刑務所なのだと指摘したのだ。
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[お詫び]
最近の小梅氏の作品は、精神分析、エーコやバルトの記号論や、図像解釈学及びカルチュラルスタディーズなどの手法を持ってしても分析が困難である事が非常に多く、解釈が十分に行えていません。
大変申し訳ございません。
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@dayukoume いつも支離滅裂だが、本作はより一層支離滅裂だ。何故だろう。ブルトンは『シュルレアリスム宣言』を著し、自動記述の手法を用いた奇妙なテクストを次々と著した。シュルレアリスム運動を現代で再び展開しようとする小梅氏は、その手法を大胆にも用い、支離滅裂な作品を描いてみせたのだ。傑作。
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@dayukoume ホロン的ヒエラルキーに関する議論を先日行った小梅氏。そのヒエラルキーの下層部は当然下層に向けて開かれている…だが、その構造は無限なのだろうか。構造論を研究し、ヒエラルキーは下方に於いて有限である事を突き止めた小梅氏は、自身がそこに位置付けられる可能性を憂慮し、畜生と嘆くのだ。
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@dayukoume チ◯◯ョ◯ならば、「ク,シ,ウ」が入るに決まっている…そうだろうか。これは既に大阪大学の皆さんが指摘している事だが、本作は、読者の多様な解釈可能性を積極的に肯定するバルトのテクスト論を踏まえた作品である。或いは、まいチクそのものがテクスト論的試作だと小梅氏は主張しているのだ。傑作。
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@dayukoume 「まいにち死ぬ」という奇妙な一節は、まさしく小梅氏の思想的実践を示している。まいチクの作者である小梅氏は、バルト的な「作者の死」や、作中での「象徴的な死」を幾度も繰り返す。小梅氏は、一度限りの「死への存在(Sein zum Tode)」たる“ワニ君”と自身のあり方の違いを強調するのだ。傑作。
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時に、「コウメ太夫はまいチクに哲学的な意図など込めていない!」という声が聞こえてきますが、「哲学と倫理学だけは出来た」と小梅氏自身が述べています。
この発言は、小梅氏の作品に哲学的意図が込められている事を十分に証明するものと言えるでしょう。 twitter.com/hondashizumaru…
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@dayukoume ハイデガー的「死への存在」を描く『100日後に死ぬワニ』におけるワニ君の死後、多数の商業展開が行われた。この商業化された「死」を、一部の人々は「電通案件」と呼んでいる。では、小梅氏はどうか。小梅氏は、自身の「まいチク」内での「死」が、決して商業化され得ないものだと強調するのだ。