301
@dayukoume ところで、フェニキア文字に「𐤄」という文字があるが、我々日本人からすれば…ヨのように見えるであろう。だが、実はこの「𐤄」は、フェニキア文字の後継であるギリシア文字やラテン文字に於いては「E 」にあたる文字なのだ。言語学者である小梅氏は一見ヨに見える文字がE に当たると解明したのだ。
302
@dayukoume フロイトは、妊娠欲のある女性同性愛者が飛び降り自殺した事例を分析し、独語のniederkommen(子を産む)が同時に“下に落ちる”という意を持つ事から、女性が飛び降り自殺したのではないかと述べた。この事例と同様、ロ〜ルケーキを見た小梅氏は、その言語的表象から目を“roll”し、回転死を遂げたのだ。
303
@dayukoume 言葉により世界を分化出来ぬ存在にとって、目に映る光景は「光景」ですらなく、まして「世界」ですら無い。その視覚情報は科学的原理に還元したもの……即ち光に過ぎないと言えるだろう。小梅氏は、「光」が言語を伴い初めてゴボウへと分化される様を描き、言語論的転回以降の視覚認識論を論じたのだ。
304
@dayukoume アーレントは、動物が有する野生的なあり方をゾーエとした。例えば人間の性行為や排泄はこれに当たるが、公的には敬遠されている。一方、亀の排卵は神秘的なものとして語られている。ヒトのゾーエのみが秘匿される現状を憂慮した小梅氏は、野糞と亀の排卵が本質に於いて同一であると指摘したのだ。
305
非常に優れた論考です。小梅氏の作品の類型化や集合論を用いての分析など、小梅学の研究として新たな試みが為されています。また、小梅氏を中心とした社会構造をフラクタル構造と指摘する社会学的考察も見事でした。 twitter.com/kenhori2/statu…
306
@dayukoume 我々が消費している「美」は、穴場であれど「桜の美」である事は変わらぬ。「美」が大衆化すると、「美を消費する事」がイベントと化し、「美そのもの」が蔑ろにされてしまう!と述べた小梅氏は、落とし穴という比喩を用い、穴場を探す人々は大衆と同調している事に変わりない!と警鐘を鳴らしたのだ。
307
@dayukoume 隠された文字に注視すると…「“ク“が隠されていると思ったら、“シ“でした」…と読み替えられる。実は、クは“苦“を、シは“死“を指すのだ。我々は日常、逃れ得ぬ“死“という苦を秘匿し生きているが、一度「死の隠蔽」を自覚すれば最後、実存的不安に駆られ○○○!と発狂するのだと小梅氏は指摘したのだ。
308
時に人々は、人間の精神は野生的なあり方に打ち克つ事のできる高尚なものと考えがちだが、その実、我々は眠気や排泄欲に敗れるなど、生理的欲求からは逃れ得ない。小梅氏は、リビドーを中心に精神を考えるフロイト的精神論を展開し、人間精神に対する我々の誤謬を見事に指摘して見せたのだ。挑戦作。 twitter.com/Astalos_pkpk/s…
309
小梅氏の哲学エッセイである『まいチク』が書籍でなく、暦として上梓された事態には、恐らく小梅氏から我々への、日々を哲学して欲しいという願いが籠められているのであろう。マクルーハンも「メディアはメッセージである」と述べたが、暦という“メディア”を通じ、日々を哲学しては如何だろうか。 twitter.com/owarai_natalie…
310
@dayukoume さて、No(Not)という概念無しに我々は個物を個物として認識出来るだろうか。例えば、<男>は<女>(=not男)の存在により成立し、<私>は<私以外>(=not他者)の存在に依拠している。“No”の概念が無くなった小梅氏は、世界を分化出来ぬ“脳なし”の状態と化してしまったのだ。
311
@dayukoume キリスト教の“隣人問題”を念頭に置く一作。原始共産主義的世界観に感銘を受け、きものちゃんと化した小梅氏だが、なんと“のけもの”とされてしまう。小梅氏は“フレンズ”を基督教における“隣人”に類する概念と定義し、恣意的にセルリアンを除け者とする『けものフレンズ』を痛烈に批判したのだ。
312
@dayukoume 嘗て人々には職業選択の自由は無く、固定的な生涯を送っていた。では近代以降はどうだろう。自由が謳われ、個人主義化していくに伴い、職業選択の規範は壊された。だが、我々の多くは未だ、好きな事を職には出来ていない。小梅氏は、誰もが“自己実現”の為に好きな事を職に出来る社会を構想したのだ。
313
@dayukoume 今作もまた西田哲学の“場”を念頭に置いている。実はナス場は🍆ではなく、“為す場”を示しており、この“為す場”とはまさしく西田哲学における、様々な現象が為される場を指している。スナからナスへの変異を通じ、小梅氏は“砂場で遊ぶ”という現象は”為す場“に依拠する事を見事に指摘したのだ。
314
@dayukoume 夕日は、同時に朝日でもある。現代の宇宙観を棄却し、「太陽に辿り着けるのでは」と考えた小梅氏は、夕日に向かって途轍もない距離を走った結果、先程まで夕日であった太陽が同時に朝日でもあることを知った。小梅氏は対象を指す言語は、対象を取り巻く状況に因って変化するのだと改めて指摘したのだ。
315
@dayukoume 何故数学的真理が自明であるのか、多くの数学者が議論してきた。数学の真理性の源泉は一体何だろうか。数学的経験主義者の小梅氏は、1+1という数式に疑問を持ち、今までの数学的経験を白紙とし、改めて「1+1」を探求する試みを為した。が、解はやはり2だった。数学の奥深さを感じさせる一作。
316
@dayukoume ネタが思い付かない事は芸人失格と言えるが、小梅氏は敢えて「ネタが思い付かない」と述べている。デカルトは唯一確実な真理は他ならぬ我の思考だと考え、「我思う、故に我あり」と述べた。小梅氏はこれを踏まえ、「我思う」を出発点に捉え直し、一からネタと真理を探求していくのだと意欲的に述べた。
317
@dayukoume 色とりどり、つまり様々な色が混在する虹色といえば、昨今話題となっているLGBTを象徴する色である。しかし、ここでは虹色では無く、実は黒であったと小梅氏は言う。黒色といえば、無政府主義、アナキズムの象徴である。人権派運動が一転、反権力的社会思想へと陥る危険性を小梅氏は指摘している。