@dayukoume さて、小梅氏は「自分が自分じゃなくなった」と述べている。何故だろう。自分を自分と認識する事は、自我意識や記憶の連続性に依るのだが、その機能を担う脳の損傷は即ち自己の連続性の断絶に繋がる。蝿の王たる悪魔ベルゼブブを目指した小梅氏だが、自我が断絶され、朽ち果ててしまったのだ。猟奇作。
本日、哲学者コウ・メダユーと、コウメ太夫氏の共著である『存在と虚像』が出版される事となりました。 今まで体系的に論じられる事の無かった小梅氏の思想が、明白に結実した作品となっています。 是非書店でお買い求め下さい。
@dayukoume 破壊と創造を司る神シヴァ神は、世界を破壊し、再びゼロから世界を創造するのだという。なんということだろう。本作で小梅氏が行ったことはまさしくシヴァ神の所業ではないか!先日、冥界神ハデスである事を明かした小梅氏であるが、一転、自身がインド神話に於いてはシヴァ神である事を明かしたのだ。
@dayukoume 春が来ないとはどういう事だろう。女神ペルセポネは、一年の1/3を冥府で過ごし、春の訪れと共に春の女神として地上に現れるとされる。さて、これを踏まえると、小梅氏の元に春が到来していない事から、小梅氏が冥界の神である事が分かる。小梅氏は、自身が冥界の神ハデスである事を示したのだ。傑作。
@dayukoume 当然、昭和生まれである小梅氏は平成JUMPに入れるわけがないのだが、アンケートの結果はこのようになっている。敢えてとち狂ったアンケートを取った小梅氏は、統計の対象によってバイアスが大きくかかる事を見事に証明してみせ、統計調査はあらゆるバイアスを考慮せよ!と警鐘を鳴らしたのだ。傑作。
@dayukoume アーレントは人間の不死性について論じ、「活動」を不死性の獲得に向けた営みと見做し、「人々の間にあること」を「生」とした。さて、小梅氏の「活動」たる芸人活動は、小梅氏のファンという「人々」との間で初めて成立する。ファンを失った小梅氏は、「活動」の条件を欠き、“死んだ”のだ。遺作。
@dayukoume ニーチェは、「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」とし、相対的な歴史観を示した。さて、小梅氏にとって、引退はまだ起きていない出来事だが、それに対し事務所では引退が既に歴史上の事実となっている。歴史や事実を恣意的に解釈する歴史修正主義者に対し小梅氏は、実証主義を掲げ闘うのだ。
@dayukoume 我々は、我々の身体を意識的にコントロール出来ると考えがちだが、その実、臓器などは不随意的であり、我々の意思と独立している。そう、高鳴る鼓動は誰にも、まして「私」ですら止められないのだ。私の身体の一部でありながら、「私」では操作不能な臓器機能に恐怖した小梅氏は、畜生と嘆いたのだ。
@dayukoume 我々の持つ属性を色彩論の視座から言及する一作。個物の属性を「色」を用い次々と例示した小梅氏は最後に、「色はいろいろ…巴」と述べる。ゲーテの色彩環を巴という意匠を用い見事に示した小梅氏は、我々の属性もまた微妙なグラデーションから成るとし、個物の持つ属性を鮮やかに論じてみせたのだ。
@dayukoume 自分を捨てるとは如何なることか。「自我」や、「意識」を想定する考えは、西洋哲学に於いては主流であるが、仏教思想の文脈から「自分」という前提を捨てる事を提案した小梅氏は、西洋哲学の伝統を破壊し、「我」を前提とする哲学に対し、「〈我〉の断捨離をせよ!」と堂々たる批判をしたのだ。傑作。
@dayukoume 地球が吹っ飛ぶ爆弾…これは核爆弾の事を指している。冷戦は雪解け、核戦争の危機は去ったかのように見えたが、ほんの気まぐれで地球が吹っ飛ぶ事に変わりは無い。核兵器を作り出した人間の身体を比喩的に「スイッチ」とした小梅氏は、現代は危ういバランスの上成り立っているのだと警鐘を鳴らすのだ。
@dayukoume 不条理は哲学に於いても度々論じられてきた。例えば哲学者カミュは、不条理を受け入れることを推奨した事で知られる。さて、小梅氏は人生に「明かり」を灯す事は不可能だと断じ、数々の不条理を謳いあげながらも、それを甘んじて受け入れ、“たのしいひなまつり”を過ごすのであった。不条理文学の傑作。
@dayukoume 夢と現実の違いは何だろう。多くの場合、我々は夢を夢として認識するのは、夢から覚めた後である。そう考えると、事後的にしか事態が現実であるか否かの認識ができないのでは無いだろうか。夢と現実が曖昧となってしまった小梅氏は、ペイペイダンスを死の舞踏として舞い、墜落死したのだ。遺作。
@dayukoume プリキュアはどのような存在だろう。我々にとってプリキュアは無論ヒロインであるが、そこには一種の偶像性が潜んでいる。偶像は、その死と同時に効力を失うが、有機的な身体を持つ小梅氏は自身の偶像化の為に全身の凍結による身体の保存を選び、“プリキュア”として崇拝される道を選んだのだ。遺作。
@dayukoume 『動物を追う、故に私は〈動物〉である』を著したデリダの影響を受けた作品。言語等、人間に固有な幾つかの能力を挙げ、果たしてそれは固有なのか?と疑義を呈する議論を受け、「猫も歌うのだ!」と主張し猫と化した小梅氏は、動物と人間の境界を曖昧にし、人間性という西洋哲学の伝統を破壊するのだ。
@dayukoume 何故、燃えたのだろう。スピヴァグは『サバルタンは語る事ができるか』にて、「サティー」を分析した。これは寡婦が焼身自殺をするヒンドゥーの儀礼だが、従属的社会集団たるサバルタンらの行為を理解する事がプリキュアの第一条件と考えた小梅氏は、当事者視点からサティーを行い焼死したのだ。遺作。
@dayukoume 何故、チョコを貰えなかったのだろう。バレンタインでは通常、女性が男性に🍫を渡す贈答関係が結ばれるが、考えてみると、性別超越者たる小梅氏はこの男女二元的カテゴリーに属さない。クィア理論的視座から疑義を呈した小梅氏は、贈答関係が女→男に定式化されるバレンタインを大胆にも批判したのだ。
@dayukoume 多様に「変身」できるメタモンは、アリストテレス的に「全ての可能態」を持つと言える。ポケセンを訪れた小梅氏は、「我々は人間という現実態を持つが、死後我々の身体が他の生物になる可能性もあるではないか!」と悟り、我々は可能態に於いて様々に変化し得る“メタモン”なのだと比喩的に述べたのだ。
@dayukoume 鏡像段階説を唱えたラカンは、幼児は生後6〜18ヶ月の間に、鏡に映る自己の像を認識し、自己像を“自己”として同定するとした。さて、窓は確かに鏡ではないが、鏡の役割を果たす。実は幼児である小梅氏は、鏡像段階を経て、窓に映る白が雪ではなく、自身である事に気付き、自我を形成したのだ。処女作。
@dayukoume 哲学的困難は何から生じるのだろう。ウィトゲンシュタインは、「文法的錯誤」をその原因と見做し、哲学の課題をその治療とした。「小梅氏が寒い」と、「最強寒波が寒い」は文法形式は全く同じ「xが寒い」だが、意味は全く違う。この混同が文法的錯誤だ。小梅氏は敢えて文法的錯誤を犯してみせたのだ。
@dayukoume 「4K=コウメ4回」と示されながらも、「8K=コウメ9回」となっている。何故か。「クワス算」を提唱したクリプキは、規則に従う事の困難を示した。そう、「4K=コウメ4回」という命題は、「4より大きな数」について何の規則も示していない。小梅氏は8の場合+1する規則を示し、規則問題を提起したのだ。
死を刻印された器~コウメ太夫論序説|谷頭 和希|note(ノート) note.mu/improtanigashi… 素晴らしい小論です。小梅氏のテクスト読解に於ける「死」というモティーフについて私自身再考の必要を感じました。
@dayukoume エロ本充実コンビニの近くに引っ越した小梅氏の目的は当然性欲である。さて、ヴィルヘルム・ライヒは、マルクス主義と精神分析を結びつけ、プロレタリアートの性的欲求不満が政治的萎縮を引き起こすと主張した。ライヒの議論を踏まえた小梅氏は、大胆にもエロ本販売停止に反対するのだ。大問題作。
@dayukoume フロイトによれば、固有名詞を思い出せない場合、その固有名詞に関わる要素を抑圧してしまい、思い違いをするのだという。愛媛の“媛”に何らかのトラウマを抱えていた小梅氏は、愛媛と愛知を取り違えてしまったのだ。(媛は姫とほぼ同義。離婚した小梅氏にとっては姫[=妻]は抑圧の対象である。) 駄作。
@dayukoume ちなみに、新作ではない。