251
@dayukoume ラカンによれば、赤ちゃんをあやす母親は、赤ん坊にとって、その時絶対的な“他者”とされるのだという。すると、地球をあやす小梅氏は、地球にとっての絶対的他者となる…これは即ち、神と言って差し支え無い。先日、無限との合一を果たし、現人神と化した小梅氏は、自身の神話を自ら綴ってみせたのだ。
252
@dayukoume 小梅氏の「スベった回数」が有限であるなら計測可能な筈だが、ここでは計測不能とされる…即ち“無限”である。さてクザーヌスは、神は“無限”であるとし、無限こそが「神へ通じる道」なのだとした。クザーヌスの議論を踏まえた小梅氏は、無限に滑る事により、"無限”を体現し、神との合一を果たしたのだ。
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@dayukoume アガンベンは、『裸性』を著し、アダムとイブは原初、裸であるのに“裸”である事を知らず、彼らは「剥き出しの裸」では無く、神の恩寵たる「光の衣服」を纏っているのだとした。さて小梅氏は、活火山突入に際し、原初的な「光の衣服」としての「裸」を“纏い”、大胆にも火山に突入してみせたのだ。遺作。
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@dayukoume 話題となったセンター試験の設問は、野菜らに足や顔がある事から、非動物に魂を認める立場を取っていると言える。だが、小梅氏は疑問を呈する。「彼らが魂を持つ動物であるならば、生殖行為はどうするのだ?」と。小梅氏は、はぎゅう〜っと脳を絞り、生殖可能なムキムキ羽タマキンを生み出したのだ。
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@dayukoume 前澤社長の100万円プレゼント企画は、100名と与えられる人数が限定されている。確かに抽選というと公平な様に思われるが、その過程は我々には公表されておらず、ブラックボックス的である。こうした事を踏まえた小梅氏は、真に平等なプレゼント企画を実施し、前澤社長を大胆にも批判したのだ。挑戦作。
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@dayukoume 甲羅は亀の身体の一部であり、剥がれた場合亀は死に至る。そう、今作の亀は死んでいるのだ。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という一節があるが、小梅氏は「死して甲羅を遺した亀」を例に上げ、死に向かう有限な存在者としての我々人間も何かを残さねばならぬ!と力強く説くのだ。傑作。
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@dayukoume 先日も述べたが小梅氏にとって「お餅」は死の象徴であり、欲望の対象でありながらも消費が不可能な存在である。ラカン的に言えば、欲望の不可能性から、父性隠喩として「ライオンのちんちん」が想像的にファルスの領域に現れたのである(🦁は父性)。小梅氏は見事に🦁の男性器を食してみせたのだ。駄作。
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@dayukoume 餅を見ただけで小梅氏はヒステリーを起こしている。先程注釈を加えた作品(お雑煮だと思ったらお雑巾でした)を踏まえても、小梅氏が餅(に潜む死)に対する恐怖を大いに抱いている事が分かる。日常に自己の死の可能性を見る小梅氏は、キューブラー=ロスの述べる死の受容プロセスを着実に歩むのだ。傑作。
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@dayukoume 何故、お雑煮では無くお雑巾だったのか。お雑煮には通常、「餅」が入るが、この「餅」は多くの命を奪う事で有名だ。「餅」が死を想起させる事から、「自己の死」を抑圧し、無意識的に避けた小梅氏は、ラカンの述べる「換喩」の働きにより、雑煮との言語的連関から、雑巾を無意識的に食したのだ。傑作。
260
@dayukoume 我々は、「食」を享受する事により生存が可能になるが、「食」の享受は、本来的に不確実性を伴う行為である。本来であればその摂取が不確実な「食」を、さも当然の様に享受している事態を年の瀬に気付いた小梅氏は、そばを生命線たる命綱に例え、一年を過ごせたのは食のお陰なのだ!と感激したのだ。
261
@dayukoume そもそも、小梅氏の父は既に逝去しているのでここでのパパは小梅氏の父では無い。では、何者か。実は、“パパ”は、キリスト教的な「父なる神」を指しているのだ。小梅氏は、自身の行動はパパ(神)に強請られ、決定してしまう!と神学的決定論を肯定しつつも、その原理を畜生!と非難するのだ。挑戦作。
262
@dayukoume Christmasのmasの意味は礼拝である。さて、これに即すとチクショマスは「畜生-mas」となり、畜生(生物)一般に感謝し祈願を行う儀と解釈できる。「クリスマス」の西洋中心性とその儀礼の持つ宗教性に憤った小梅氏は、代替案として「チクショマス」を提案し、全ての生きとし生けるものに感謝するのだ。
263
@dayukoume またしてもナンセンスな作品であるが、トリケラトプスと元カノの共通項は、どちらも過去の存在である事だ。ベルクソン的な「持続としての時間」に於いて、現在に過去を巻き込んだ小梅氏は、元カノやトリケラトプスらの存在を重層的な時間意識の中、創造したのだ。駄作。
264
@dayukoume 主体がコブラである事は上の句で既に示されたにも関わらず、下の句では「コブラであった」事実が驚嘆を伴い述懐される。小梅氏は、「吉岡里帆性」をコブラに付与していた。ハイデガー的〈als構造〉の元、コブラを吉岡里帆〈として〉了解した小梅氏だが、噛まれた際にその誤謬に気付いたのだ。駄作。
265
@dayukoume 楽曲『イイ波のってん⭐️NIGHT』では、「イイ波」という概念が提示されるが、これは柳田國男が見出した概念の「ハレ」に相当する。現代的な「ハレ」である「イイ波」を歌い上げる楽曲に対し、小梅氏は数々の不条理を謳い上げ、厭世主義の立場から、不条理な現実から目を逸らすな!と警鐘を鳴らすのだ。
266
@dayukoume 「コウメダユウ」の六文字が多様に分割されると同時に、「白塗り」や「破綻」といった言葉も分節化され示されている。小梅氏は、「最強のコウメ太夫」は、「コウメ太夫(固有名)」「白塗り」「破綻」という諸要素に依り成立すると述べ、要素集合(合体)により、個人は同定(identify)されると述べたのだ。
267
@dayukoume 「味覚」は、哲学史に於いて長らく低次の感覚とされてきた。一般に「何かを知る」というと、視覚や聴覚により「知る」のだが、小梅氏は視覚/聴覚優位の価値観を斥ける。🍎(視覚に拠る推定)を食した小梅氏は、それをミカンだと“味覚に依り”断定し、真なる世界を把握する為に味覚を用いよ!と説くのだ。
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@dayukoume 「勤労が無い」という事は、奴隷らが全ての労働を担う古代ギリシャのポリス社会を示しており、文章に注釈を加えると、「(嘗ては知識階級にとって)勤労すら無かった!畜生共!」となる。小梅氏は、「勤労感謝の日」を、労働概念を普遍化するイデオロギー装置と指摘し、古代ギリシャに還れと訴えたのだ。
269
@dayukoume 自/他は、対立する概念と見做される事が多いが、果たしてそうなのだろうか。ベランダに現れた“何者か”は、その得体の知れなさから我々に恐怖を与える。そう、我々は他者が真に何を考えているか、絶対に知りようが無いのだ。小梅氏は体験を以って自/他の非対称性と、その得体の知れなさを指摘したのだ。
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@dayukoume 『もののけ姫』を視聴していた小梅氏は、アシタカの台詞を聞き、疑問符を浮かべた。─我々は一体何処から来たのだろうか─。“母の胎内”というのは確かに一つの解答ではあるが、では、我々は“生”を得る以前、一体どこに居たのだろう。“どこでもない“のであれば、何故我々は生きているのだろうか。傑作。
271
@dayukoume 夏が終わり、巡り巡る四季。冷涼なるその季節は、食欲の秋か、芸術の秋か。郷愁を懐く人々を横目に、小梅氏は死神の足音を聞いていた。ハイデガー哲学の影響を多大に受けた小梅氏は、季節が巡る事は同時に自身の死期が近づいている事なのだと考え、逃れ得ぬ死に向き合う覚悟を決めたのだ。傑作。
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@dayukoume 異端児とは、即ち狂人である。人間理性に全面の信頼を寄せた嘗ての西洋社会では、狂気は排除され、“無かった事”にされた。だが、確かに、そこに“異端児”は“居た”のである。人間理性に疑義を投げ掛ける小梅氏は、狂気の存在を身を以て示し、哲学界の異端児として西洋哲学の伝統を破壊せんとするのだ。
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@dayukoume (承前)…人々は必然的に死のプロセスを辿る事が示唆されており、ハイデガー哲学の影響が垣間見える。そして、「ゾンビ」では、ヒトが死した後、死人が「他者の心」の中で“生きる”のだと述べ、人間のゾンビ性(不死性)を唱えたアーレントの議論を発展させたのだ。挑戦作。
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@dayukoume 人生とは何かを思索した小梅氏は、「出会いと別れ」という定義から脱却し、生の段階説を発表した。この段階説によれば、生の第一段階は赤ちゃんであり、ヒトは常に未熟かつ他者に依存しなければ生きられない“人間”(ヒトの間の存在者)であるという。更に、第2段階の「あの世」では…
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@dayukoume 有名な倫理学の思考実験であるトロッコ問題についての論考。真っ直ぐ直進しても多くを殺し功利主義的道徳に反し、また曲折しても人を“自ら”殺す事となるジレンマに際した小梅氏は、「ジャンプする」という回答をするも、想定外の回答に対しトロッコがバグり、マグロと化してしまったのだ。駄作。