本ノ猪(@honnoinosisi555)さんの人気ツイート(リツイート順)

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8月24日は、哲学者シモーヌ・ヴェイユの命日。 「疲労が重なると、自分が工場にいる理由までも忘れ、こういう生活がもたらす最大の誘惑に負けそうになる。もうなにも考えないという誘惑だ。これだけが苦しまずにすむただひとつの方法だから。」(冨原眞弓編訳『ヴェイユの言葉』みすず書房、P219)
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「会社からすれば、いじめのおかげで、社員から不満の矛先を向けられる恐れが減る。加害者が自分の職場ストレスを発散するために無自覚に行っていたいじめが、会社にとっては、過酷な職場の「統治」に役立っていたというわけだ。」(坂倉昇平『大人のいじめ』講談社現代新書、P90)
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「一言でいって、企業に所属していなければ、福祉を受けることができないのが、日本社会なのである。そして、福祉不在のために、通常の生活を営むためにかかる費用が高すぎるのが、日本社会の特徴だと言える。」(今野晴貴『生活保護』ちくま新書、P200) amzn.to/3cEuwi2
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「加齢臭や女子力ということばがなかった時代には、体臭を気にする男性も、自分磨きを意識する女性も決して多くはありませんでした。しかし、社会記号として概念がつくられた途端、男性用の体臭ケア用品が売れ、女性の魅力を磨く講座に人が集まるようになりました。」(『欲望する「ことば」』P12)
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「死者はいつも生者のダシに使われている。死者はそれにも抗議できない。たとえば、戦死者は、日本のために、あるいは天皇のためにすすんで死んだのか、恨みをもって死んだのか。それはわれわれにはわからない。あるいは、どうとでもいえるのです。」(柄谷行人『倫理21』平凡社、P133)
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シンプルに大切なこと。
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「大体、生きている人間というものは、どこか我慢ならない点をもっています。死んでしまうと誰だって美化される。つまり我慢できるものになる。これは生存競争の冷厳な生物的法則であって、本当の批判家とは、こんな美化の作用にだまされない人種なのであります」(三島由紀夫『不道徳教育講座』P172)
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田中小実昌が牧師である父親について語った『ポロポロ』に、関東大震災のエピソードがある。小実昌の父は、信者が朝鮮人が襲撃してくるというデマに突き動かされて、凶行に及ぶことがないように、信者宅を一軒一軒歩いて回った。その道中、何度も「竹槍で突き殺されそうになった」(P29)らしい。
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文庫本に挟まっていた小冊子。 坂本龍一さんが坂本龍馬に扮していた。
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「一度ある人を立派な人だと思ってしまうと、その人が立派なことをしている場面にだけ注意が向けられる。反対に別の人をダメなやつだと思うと、その人がダメなことをしている場面に注意が向けられがちになる。」(鈴木宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』講談社、P87)
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「知識が多量にありしかもそれらが有機的に組織されている人は、他者から見ればものをよく知っていると思われるかもしれませんが、すぐ疑問にぶち当たることが可能ですから本人は疑問や知らないことを多く抱えており、とてもものをよく知っているとは思っていない」(『知ってるつもり』光文社、P130)
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江戸時代の「入墨刑」。入墨の入れ方は地域によって異なる。 (参照:名和弓雄『拷問刑罰史【改訂第二版】』雄山閣、P191)
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「私は、「私は差別なんてしない」などといった「自分は違う」的な発言をする(一見したところ意識が高いように見える)人こそ、危険であると思っています。誰もが「差別」と受け止められる発言をしてしまう可能性があり、誰もが危機意識を持つべきなのです。」(『いまを生きるカント倫理学』P201)
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「非のない人が理不尽に苦しめられるのを見るのは耐え難い。だが、そうした理不尽な世界に自分が生きていることを認めることより、目の前で苦しんでいる人に何らかの非を認める方が容易である。したがって犠牲者が苦しまなければならないのは、本人に非があるからだと考える」『いじめを哲学する』P87
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「人から受けた恩は別の人間に返しな。でないと世間が狭くなるよ」 「厚意とか思いやりなんてのは、一対一でやり取りするようなもんじゃないんだよ。それじゃあお中元やお歳暮と一緒じゃないか」 (中山七里『護られなかった者たちへ』宝島社文庫、P262)
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「政府とは、ていさいのいい一種の義賊なんだな。しかも、おっそろしく能率の悪い義賊さ。大がかりに国民から金を巻きあげる。その親分がまずごっそりと取り、残りを、かわいそうな連中に分けてやれと子分に命じて渡す。上から下へ子分どもの手をへるうちに、みるみる少なくなる」(『マイ国家』P314)
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ジョジョ立ちする聖徳太子。 (参照:荒木飛呂彦・画、『集英社版 学習まんが日本の歴史2』)
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「常に「正解」を当てさせることや、結果がよければすべてが正当化されることを、学校や家庭が「模範」として示しているかぎり、ものごとの背後にあるものを考えようとしたり、ものごとを一面的にながめないようにすることは永久に学べないでしょう。」(『「わかる」ということの意味[新版]』P211)
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「動機が偽善だからダメ、やりかたが偽善だからダメ、なんて批判には意味がありません。すべては結果次第なんです。結果がよければそれでいいし、結果的に苦しむ人がいるようなら、その善行はまちがっているんです。」(パオロ・マッツァリーノ『偽善のトリセツ 反倫理学講座』河出文庫、P192)
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「学習を苦役と考える人は、その方法を工夫することに思い至らず、反復訓練と暗記だけを学習法と信じて繰り返す。そして試験が終わり学校を離れれば、学んだことのほとんどを手放して顧みない。こうした人が「勉強なんて役に立たない」と公言し、専門知より世間知を優先する」読書猿『独学大全』P450
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「人と人が別れるとき、「サヨナラ」というものだと私たちは思っている。しかしよく考えてみると「サヨナラ」といって別れることが出来る別れは倖せな別れだ。戦争の頃、私たちは戦争に行く人に向かって「サヨナラ」ということが出来なかった」(佐藤愛子・文、『少女たちの戦争』中央公論新社、P27)
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「論破を得意としている人は、何の意味があるんですか、という問いかけを好む。意味の有無を自分勝手に判断しながら、それを基準値にして、ほら、意味ないですよねと繰り返す。そんな彼らの多くは、なぜかニヤニヤしている。」(武田砂鉄『今日拾った言葉たち』暮しの手帖社、P228)
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いつの時代でも目にする光景。 「こいつが惡かったんだ!」 (参照:麻生豊・画、1946年。『近代日本漫画百選』岩波書店、P217)
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政府や社会問題に対して批判を行ったときに、「なにもそこまで言わなくても。大袈裟だねー」と水を差してくる人がいる。だが、「大袈裟」とは言えなくなった段階で批判をはじめても、それはもう手遅れである。
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10月29日は、映画監督・高畑勲の誕生日。 「民主主義教育を受けたはずなのに、私たち日本人は、西洋流の個人主義的な、周りが反対であろうと、一人ひとりが自立して考え、ちゃんと意見を述べたうえで、議論をして深めていく、ということは全然できていません。」(『君が戦争を欲しないならば』P54)