早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(リツイート順)

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東京新聞の女性記者の取材姿勢が問題に。本人は「権力の暴走を止める」と懸命なのだろうが「権力の暴走」以上に恐いのが「マスコミの暴走」。これは昭和史の教訓でもある。マスコミの仕事は反権力に凝り固まることではなく、事実を伝えること。権力の監視は必要だが、そればかりに執着すれば目が曇る。
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【ジョーク】  日本人と韓国人が殴り合いの喧嘩をしていた。駆け付けた警察官に対し、韓国人がこう叫んだ。 「とにかく、ひどい話なんですよ!」  警察官が聞いた。 「いったい何が喧嘩の原因なんだ?」  韓国人が答えた。 「この日本人が私に殴り返してきたのが喧嘩の原因です」
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ウクライナと国境を接するルーマニア。現地で暮らすルーマニア人の友人に「大丈夫?」とメールしたら「次は日本かもしれないね。気をつけて」と返されてしまった。
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「ニューズウィーク」に「ワイドショーのコメンテーター」への批判を書きましたが「あれ誰のことですか?」といった問い合わせをいただいております。特定の個人名は控えさせていただきたいと思いますし、推察も無用であります。ご了承ください。
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本日は特攻隊「ほがらか隊」の方々の命日。昭和20年5月27日、ほがらか隊を自称する第72振武隊は、沖縄防衛のため鹿児島県の基地から出撃。沖縄周辺にて散華した。子犬を抱いているのは荒木幸雄伍長。実に17歳である。荒木伍長は「チロ」と名付けた子犬に「大きくなれよ」と声をかけてから出撃した。
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ソ連によるシベリア抑留では、実はウクライナも抑留先の一つ。現在、激戦地となっているハリコフにも収容所があり、今、破壊されている建物や道路の一部も日本人抑留者が建設したものです。ウクライナの民衆は抑留者に同情的で食糧の差し入れもあったとか。死亡率が最も低かったという記録もあります。
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ロシアによるウクライナ侵攻後、私が最も驚かされたことの一つが、日本国内で「降伏」をすぐに口にしたコメンテーターがいたことである。歴史への無知が浅はかな主張を導き出してしまう実例を見た気がした。日本はやはり戦史や軍事学の基礎をしっかり学ぶようにしなければならない。今のままでは危険。
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若い頃、ジョン・レノンの「イマジン」が好きだった。だが、中東での取材中、とあるパレスチナ人が「平和な国の人が歌うイマジンなんて腹が立つだけだ」と泣きながら言うのに接してからは、複雑な思いを抱くようになった。いまだに答えは見つからない。誰か教えてほしい。
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「コロナ禍で鬱(うつ)が増えた」とテレビ番組が報じていたが、その要因の一つはワイドショーでは? 戦時中の新聞メディアと同様、誤報を繰り返し、煽りに煽った責任は? 「コロナ鬱」じゃなく「ワイドショー鬱」だろう。
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特攻隊員の遺書。内容はもちろん、その達筆さにも心打たれる。皆、20歳前後の若者たち。戦後教育とは何か。
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ペリリュー戦の生き残りの一人である永井敬司さん(97歳)はこう語る。「日本を守るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を守るため。私たちは太平洋の防波堤となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」
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実際に南京戦に参加したお二人の元兵士に取材したことがある。お二人とも激しい交戦があったことは認めつつも「20万人の虐殺などあり得ない」と涙ながらに主張。そして「なぜ私たちの話よりも中国共産党の言う事を戦後日本人は信じるのか」と強く嘆いていた。そんなお二人も無念のままご逝去。合掌。
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南京戦の体験者である島田親男さんは「戦闘はあったが、市民への30万人もの虐殺など一度も見ていない」と語り、涙ながらにこう言った。「なぜ戦後の日本人は中国人の言うことばかり信じて、私達の言葉には耳を傾けてくれないのでしょうか」。そんな島田さんも既にご逝去。思いを継いでいきたい。合掌。
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最近では中核派を知らない若者も増えていると聞くが、「戦争の歴史」と同じく、しっかりと語り継ぐべきは「左翼の暴力史」。世界の近現代史を見れば、戦争よりも共産主義によって、より多くの人々が犠牲になっていることが分かる。これは義務教育で丁寧に教えるべき案件。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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ソ連の最高指導者であるスターリンは、50万人もの日本人将兵を捕虜とする命令(第9898号決定)を極秘に発令。結果、57万人以上もの日本人がシベリアなどの地に強制連行され、多くの方々が無念の思いを抱えたまま絶命されました。この明確な国際法違反は、今に到るまで全く裁かれていない。
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最初の神風特別攻撃隊「敷島隊」は、フィリピンのマバラカット飛行場で編成された。現在、同地はフィリピンの人々の手によって維持されている。「どうして日本の政治家は、命を賭けて祖国を守った人々の慰霊に来ないのですか?」
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「専門家ではない出演者がコメントする」という形式のテレビ番組はもうやめたらどうか。海外には日本のワイドショーのような番組はほとんどない。日本でも夜のBSには比較的まともな番組があるように思うが、昼間の地上波は本当にひどい。
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取材でお世話になった多くの元日本軍兵士の方々が、ここ数年で亡くなられた。皆さん「平和の大切さ」を語ってくれたが、同時に「戦後の歴史教育の偏り」を嘆く声もとても多かった。ある方は「日本軍だけが悪者にされて悔しい」と下を向いた。ある方は「亡くなった戦友に申し訳ない」と号泣された。
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「三船殉難事件」とは、終戦後の昭和20年8月22日、樺太から北海道へ引き揚げる人々を乗せた3隻の民間船が、ソ連の潜水艦による魚雷攻撃に晒され、約1700名もの方々が犠牲となった虐殺事件。潜水艦は海面に浮上し、無抵抗の船に機銃掃射まで行った。この潜水艦の艦長はロシアで「英雄」とされている。
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かつてヨーロッパで暮らしていた時、「日本は島国で、移民問題がないのが羨ましい」とよく言われた。テレビや新聞などでも、移民にまつわる諸問題が、毎日のように報じられていた。日本はせっかくのメリットを自ら手放すようなことは避けるべきである。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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戦争体験者への取材を20年近くしています。取材対象者が話しづらいことを聞く時には、時間をかけ、何度も会い、食事や酒を共にしながら信頼関係を築き、言葉を十分に選んで質問します。相手に敬意を払い、自然に話し始めるような雰囲気づくりに努めます。戦争体験とはそうやって聞くものだと思います。
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ペリリュー戦の生き残りの一人である永井敬司さん(97歳)はこう語る。「日本を守るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を守るため。私たちは太平洋の防波堤となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」
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本日は「勤労感謝の日」ですが、本来は「新嘗祭」。稲の収穫を祝い、翌年の豊作を祈願する日で、宮中恒例祭典の中でも最も重要なものとして位置付けられています。しかし、戦後、GHQの占領政策により「勤労感謝の日」という名に。私は「新嘗祭」に戻したほうが良いと思っています。