早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(新しい順)

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かつて南米などでは、サッカーが下手な人のことを「日本人のようだ」と表す言い方がありました。そういった表現も、もう無くなるでしょう。多くの方々の努力と実績の積み重ねによる賜物だと思います。粘り強く最後まで諦めずに戦う人のことを「日本人のようだ」と言う表現が定着したら嬉しいですね。
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中国各地で起きているデモ。「マスクなしでワールドカップを楽しむ海外の映像」がその要因の一つになっているという説があるが、あながち間違いではないかもしれない。かつてルーマニアで起きた共産党打倒革命は「ジーンズを履いて楽しそうにハンバーガーを食べる海外の映像」が発端とも言われている。
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パラオの故クニオ・ナカムラ元大統領には現地で話を聞いた。彼の父は伊勢出身の船大工で、母はペリリュー島の出身。米軍の上陸作戦の直前、ナカムラ家を含むペリリューの島民は、日本軍の命令によって他の島に疎開。「日本の疎開指示がなかったら、私は今ここにいない」と笑った表情が忘れられない。
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ペリリュー守備隊長の中川州男大佐は、米軍の上陸戦が始まる前に、島民と在留邦人に対して他の島への疎開指示を徹底。その結果、同島では熾烈な戦闘となったにもかかわらず、民間人への被害は極力抑えられた。その事に関して、今も感謝の言葉を述べるペリリューの人々は少なくない。
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今から78年前の昭和19年11月24日、ペリリュー島の守備隊長・中川州男大佐は、集団司令部に向けて「サクラサクラサクラ」と打電。玉砕の意を告げた。その後、中川大佐は地下壕内にて自決。この戦いにおける日本人犠牲者は1万人以上。未だ2200柱以上のご遺骨が島に眠る。合掌。
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「勤労感謝の日」の本来の姿は「新嘗祭」。稲の収穫を祝い、翌年の豊作を祈願する日で、宮中恒例祭典の中でも最も重要なものとして位置付けられています。しかし、戦後、GHQの占領政策により「勤労感謝の日」という名に変えられました。私は「新嘗祭」に戻したほうが良いと思っています。
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横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから今日で45年。13歳の時に拉致されためぐみさんは現在、58歳になっています。以下は母親の早紀江さんの言葉。「表現のしようがない。なんで生きているんだろうと。解決ができないままで終わってしまうのかなと考える」「むなしいですね」。国会の最優先課題に!
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私は2年ほどルーマニアに住んでいたことがありますが、選挙権などの参政権はもちろん有していなかったし、欲しいとも思いませんでした。ルーマニアの事はルーマニア人が決めるのが当然だと思っていたからです。
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11月3日は文化の日ですが、戦前は「明治節」。明治天皇の誕生日を祝う日でした。しかし、大東亜戦争の終結後、GHQの一方的な勧告により、名称の変更を強いられました。占領下において祝日まで変えられたわけです。私は歴史的意味に沿った本来のあるべき名称に戻すべきだと思います。
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日本政府による経済制裁が効いてきているようだ。ロシアへではなく、日本国民への。
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明治期の「富国強兵・殖産興業」には肯定的なのに、令和の「富国強兵」には随分と強いアレルギー反応を示す人たちがいる。今のままでは「貧国弱兵」に堕するが、それで良いのか。
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最近では中核派を知らない若者も増えていると聞くが、「戦争の歴史」と同じく、しっかりと語り継ぐべきは「左翼の暴力史」。世界の近現代史を見れば、戦争よりも共産主義によって、より多くの人々が犠牲になっていることが分かる。これは義務教育で丁寧に教えるべき案件。
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昭和19年10月25日、特攻隊「敷島隊」がフィリピンにて世界初となる特攻作戦を敢行。隊員の谷暢夫の弟である英夫さんは私の取材にこう語った。「陽気で優しい兄でしたが、敗戦後は『戦争協力者』『狂信的』『犬死に』等と言われるようになりました。遺族としては本当に悔しい思いをしました」。合掌。
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10月24日、戦艦「武蔵」はフィリピンのレイテ沖で米軍と交戦。魚雷の連続攻撃に晒された。艦長の猪口敏平少将は遺書等を副長の加藤憲吉大佐に手渡した。加藤は最期まで運命を共にすることを願い出たが、猪口はそれを許さなかった。猪口は艦長休憩室に入り、鍵を掛けた。その後、武蔵は沈没した。合掌。
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天皇、皇后両陛下が沖縄をご訪問。国立沖縄戦没者墓苑にご拝礼されました。これは令和になって初めてのことでした。県平和祈念資料館を見学された際には「本当に痛ましい」と呟かれたそうです。慰霊と鎮魂のため、同地を訪れる人が増えることを望みます。
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大牟田捕虜収容所第十七分所所長を務めた福原勲大尉は戦後、捕虜虐待の容疑者と一方的に見なされ、C級戦犯として絞首刑の判決を受けた。彼の最期の言葉は「大地を踏ませていただいて、ありがとうございます」。杜撰な裁判によってBC級戦犯とされ、命を奪われた人の数は約千人に及ぶ。合掌。
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先の大戦を語る際、「軍部の独走」はよく指摘されます。無論、そういった面はあったのですが、合わせて考えなければならないのが、当時の政治家が足を引っ張り合って、政策や方針が遅々として決まらず、その内に事態がずるずると泥沼化していったという一面。現在のどこかの国とよく似ていますね。
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専門家でもない人がコメントするかたちの「ワイドショー」という番組スタイルは、もう限界なのでは。ちなみに、こういったスタイルの番組は海外にはほとんどありません。日本でも夜のBS放送などには面白い番組があるので、やればできるはずだと思います。虚報を繰り返す番組は要りません。
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多くのユダヤ難民を救出した樋口季一郎中将の銅像が出身地である淡路島に建立されましたが、このことはイスラエルのテレビでも大々的に紹介されました。除幕式の様子や樋口の写真などを使い、かなり丁寧に報じられました。それに引き替え、日本のテレビメディアは何をしているのでしょうか。
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中学生の長女を初めて靖國神社に連れて行きました。遊就館もじっくりと見学し、色々な話をすることができました。昼食は、特攻隊員たちが愛した富屋食堂の味を再現したという玉子丼。記憶に残る1日になってくれれば嬉しいのですが。
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かつて「私は断言する、新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう」と書いたのは随筆家の山本夏彦。昨今の活動家のような記者たちの言動を見るにつけ、この言葉の重みが改めて迫ってくる。あるいは、国をあやまるのはワイドショーかもしれないが。
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樋口季一郎中将の功績を伝える銅像が、出身地である淡路島に建立されました。軍人の顕彰は一種のタブーとされてきましたが、是々非々で冷静に評価する社会にようやく成りつつあることを感じます。軍人を悪玉にまとめて非難するのではなく、もちろん美化することもなく、史実に寄り添いたいものです。
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今日は樋口季一郎中将の命日。満洲国で多くのユダヤ難民を救出し、終戦後には占守島の戦いによってソ連の北海道占領を防いだ樋口は、昭和45年10月11日、老衰のため亡くなりました。享年82。晩年の樋口は食事のたび、妻の静子に「ママ、ありがとう」と手を合わせていたそうです。
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昭和19年8月に起きた対馬丸事件の生存者で引率教師だった糸数裕子さんが97歳で亡くなりました。沖縄から本土に向かう学童疎開船「対馬丸」は米潜水艦の魚雷によって撃沈。子供など1500人近くが絶命しました。「先生、助けて」の声に苦しんだ糸数さんの戦後。天国で教え子たちと会えたでしょう。合掌。
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「Jアラート」ではなく、はっきりと「空襲警報」と言えば良い。