コーヒーは何にでも効く!と思われた頃の西洋の状況についてはこちらをご参照下さい twitter.com/elizabeth_munh…
冒頭の画像は稚内市役所HPからお借りしました。碑の場所は稚内市宗谷公園になります。 city.wakkanai.hokkaido.jp/kanko/gaiyo_re… 参考文献 珈琲一杯の薬理 jstage.jst.go.jp/article/jjhp/5… 天明の蝦夷地から幕末の宗谷 city.wakkanai.hokkaido.jp/kyoiku/supotsu… 千島列島をめぐる日本とロシア hup.gr.jp/modules/zox/in…
こうして導入されたコーヒーは1855年の宗谷警備で飲まれた。 極寒の地で淹れられたため、浅煎りで粉も混じった一杯だったと想像される。 その条件では、ビタミンCが吸収される割合が飛躍的に高まるらしい。 偶然に偶然が重なり、コーヒーによって命は救われたのだ。 #にいがたさくらの小話 その389
しかし日本にはオランダから入ってくる書物だ。 「コーヒーが効く!」 1803年に日本の蘭学者がそう紹介した。 だがそれは、150年前の誇大宣伝。 既に西洋では柑橘が効くことが知られていた。 しかし、オランダは商機を感じた。 当時、オランダはインドネシアでコーヒーを作っていたからだ。
彼らは米、味噌、沢庵、漬物など新鮮な野菜以外は本土と変わらない食事を取っていたが、ビタミンは足りなかった。 ビタミン不足を補う大根が支給されることもあったが、全員には行き渡る量ではなかった。 そもそも寒い蝦夷地。 極寒の中、知識のない彼らは謎の奇病にやられ、壊滅する隊もあった
壊血病といえば、ビタミンC欠乏により発症する病気で、大航海時代の西洋の船乗り達がよく罹患した。 だが西洋だけではなく、江戸期日本でも蝦夷地警備をする武士達が罹患し、尊い犠牲を出す。 時代が下ると、対策としてコーヒーが飲まれた。 コーヒーにはビタミンCは含まれていないが、なぜか効いた
大正時代、淡路島の小作農民達は過酷だった。 他の地域では小作料として米を払えば済むのに、淡路島だけは二毛作の麦まで現物納品していたからだ。 「稼げる物を植えんとアカン」 そこで試されたのが、玉ねぎ。 これが淡路島の気候や農家にマッチし、現在まで100年以上続く玉ねぎの名産地となった。
幕末には黒船来航情報も伝達。 明治に入り、電信技術が入っても暫くは使われていた。最新技術である電話電信は高く、回線が詰まって遅かったからだ。 ちなみに旗振り通信の弱点は天候。 その時は米飛脚を使っていたという。 いつの世も情報は鮮度が命。 #にいがたさくらの小話 その184改
情報にタダ乗りする輩が現れると、暗号通信の手段も発展した。 また、早すぎる伝達の規制や米飛脚の保護のために幕府から禁止されたこともあるが、禁止されていない地域を使ってやり取りが行われたという。 旗振り通信による情報を求める人は年々増え、後には定額通信制に移行したらしい。
等間隔に人を配置し、当時の最新技術である望遠鏡を持たせ、通信プロトコルに従って通信する。 江戸大坂間は箱根の山越えがあるため、そこだけ米飛脚に頼ることになる。 瀬戸内沿岸ならほぼノータイムで交信できた。 ちなみに神戸市に旗振山という山があるが、名前は旗振り通信に由来する。
江戸時代、米相場の発展に伴い情報の速達性が尊ばれた。 相場情報を印した紙を昼夜交代で飛脚を使っても江戸大坂間で3日かかるのが商人の悩みの種だった。 「速さが足りない!!」 そこで使われたのが旗振り通信。 これにより江戸大坂間で最速8時間。瀬戸内沿岸なら1時間もかからず情報伝達可能に
淡路島の農民車の動画をおすすめしておきます youtu.be/dZkjRbSEb7s youtu.be/6h7kKhcQeas
現在もわずかに農民車が作られているが、最近は部品が不足している。 電子制御が進んだエンジンは転用不可だし、中古車自体海外に輸出されているからだ。 だが、淡路島の農民車は文化。 最近は若者が独創的な農民車を作っているらしい。 時代は変わる。良くも悪くも #にいがたさくらの小話 その386
淡路の農民車は1970年代、隣の徳島県を皮切りに瀬戸内の島々などの山がある地域に売り出した。 だが、普及はしなかった。 その頃には悪路を走れる軽トラが手に入りやすくなっていたし、山の上まで道が良くなったから農民車が必要なくなったからだ。 こうして淡路島だけガラパゴス的に農民車が残った
同じ発想は大手メーカもしていた。今は世界的重機メーカとなっているコマツだ。 コマツは昭和35年、農作業と街乗り両方ができる車をコンセプトに世界的デザイナーを据えて生産した。 だが街乗りには普及せず、トラクターのほうが便利だったためなのか、わずか2年4300台を生産しただけで終わった。
淡路島は神戸や大阪などの都会に近いため、スクラップ部品が手に入りやすかった。 無骨な作りだが、農家の要望にダイレクトに応えれたため、実用性は極めて高かった。 農家の要望に合わせてオーダーメイドで作るため、すべて一点物だ。もちろん設計図などない。 ちなみにナンバーも取得できる。
古くから玉ねぎの産地である淡路島。 淡路の農地はぬかるみが多く、昭和30年代の軽トラではスリップするため畑に入って行けず、玉ねぎを運び出すのに苦労した。 だがトラクターは当時まだ高価だった。 そこで地元の鉄工所はスクラップ部品と鉄骨を使って問題を解決した。 それが「農民車」だ。
イルティッシュ号はその後島根県江津市沖に沈みましたが、それを引き揚げようとした男の話はコチラ twitter.com/monkey_across/…
日本海海戦で破れたロシア艦·イルティッシュ号は現在の島根県江津市沖に沈没した。 住民が乗組員を助けた逸話は語り継がれるが、この船にはもう一つの物語がある。 それは金。 航海日誌によると、バルト海からの航行中に大量の金を積み込んだというのだ。 この金塊探しに命を懸けた男がいる。
写真及び参考文献は以下からお借りしました。 なお、最後の写真は私の撮影になります。 江津市史 下巻 dl.ndl.go.jp/ja/pid/9575063… 歴史地理教育 740号 dl.ndl.go.jp/ja/pid/1119846…
その後乗組員達を引き渡しても、住民達は彼らを思い、次の年からロシア祭りをすることにした。 戦争や担い手不足などいくつかの中断はあったものの、2022年現在まで続く。 文化や主義は違えど相手も人間。 人助けの話はこれからも語り継がれるだろう。 #にいがたさくらの小話 その383
言葉が分からないが、相手は困った人間。 ロシア兵たちは、日本式の風呂にビビる。 釜茹でにして殺されるのではないか? そんな誤解を住民達は身振り手振りで応える。 また、寒さで凍えている少年兵に対して、人肌で温める母親もいたそうだ。日露戦争で戦士した我が子とダブったのかもしれない。
最初は本気で攻めてきたと思っていた住民達は、鍬や鎌で武装。殺気立っていた。 村の数少ない知識人である小学校の先生が、白旗を見つけ、投降していることがわかる。 投降した者は丁寧に扱うのが国際的な条約。 攻めてきたのではないとわかると、村の人達は脱出用ボードを誘導し、乗組員を救助。
日露戦争中の1905年5月28日 日本海海戦に敗北したロシア艦イルティッシュ号は島根県の漁村近くに流された。 その村は当時新聞が3日遅れで届くような村。 ロシアは戦争中の敵という認識しかなかった。 だが彼らを放っておく訳にはいかない 住民達は荒波の日本海に入り、献身的にロシア人達を救援する
島原の乱は、疲弊した農民、領主の圧政、キリシタンに立ち返ったもの、早期鎮圧したい幕府中枢など、様々な思いが交差していたが、援軍を要請された九州諸藩にはどうでも良かった。 大坂の陣以来20年振りの大戦。 身体は闘争を求める。 各藩はいきり立ち、幕府からの要請よりも多く兵士を派遣した。