荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro(@ogi_fuji_npo)さんの人気ツイート(新しい順)

不健全図書の審査を公開できない理由がいくつかあるのは分かるけど、その議事録を、どの委員が発言したかを匿名化したまま、3年たったら廃棄してしまうという運用を続けることに合理性はあるんだろうか。 行政の在り方を歴史的に検証するためにも、一定期間が経過した後は、匿名化から戻してはどうか。
風俗営業法には、表現規制(本やソフトの販売規制)としての側面があるという話を以前からしていましたが、それがかなりはっきりと表面化する事件となりましたね。 newsdig.tbs.co.jp/articles/-/204…
アメリカ国内においても州ごとにインターネットが分断されていく時代になるかもしれない。州法によって何がブロックされるかが決まるのだ。 じきにアメリカ人は、他の州での責任追及を恐れて、自分の国を自由に旅行できないようになるかもしれない。 あるいはマスクはそれを見越しているのだろうか。
予告通りのイーロン・マスク流になりそう。Twitterには皆が勝手に投稿して、モデレーションはいっさい行わず、止めたいのなら世界中の政府が各々でブロッキングすればいいと突き放し、投稿者がその法域にいるなら責任追及も可能ですよ、と。
二つの側面がある。 言論の自由が一応ある国では、これまでの私人・私企業の自律性に一定の軸足を置いた共同規制的なガバナンスが破綻するだろう。 一方、独裁的な国では、カリフォルニアの自由なプラットフォームというサンクチュアリが人々から奪われることになる。
現行の商業出版流通規制システムによって、事実上できない自主規制方法の一つに、レーティングなしにゾーニングを行うという売り方があるんですよね。 本当に読みたい子が読むことは禁じないけど、望まなければ大人でも不意打ちで露骨に見せられないという売り方。これが事実上できない。
例えば、シュリンクされて、レーティングが明記されていて、表紙に露骨な表現があるわけでもない場合に、現行のような区分陳列が必ずしも必要かとか、本来なら、いくつかの変数の組み合わせが考えられるとは思うんですよね。
出版流通の、自主規制と、マーケティングと、それらの行政による共同規制化という前提をまずは理解しないと、どうしてもう少しマシなゾーニングができないかという疑問についての答えは見つからないように思うんですよね。
前から気になっていたんですが、購買層からのゾーニングされた売場がほしいというニーズがそれなりに大きいという点が、ネットの皆さんのご議論の中では、うまく認識共有されてない感じもするんですよねぇ。
BL出版物は、消費者側の要望として、きちんとゾーニングされたところで買いたいというニーズが高く、出版側も流通側もその方向性を模索していたんだけど、むしろ、現行の警察の運用や、条例による自主規制の共同規制化が邪魔になって、自主規制ゾーニングを邪魔されてきた経緯があるんですよね。
例えば、店頭に陳列せず、注文があった場合のみ、カウンターから出して提供するみたいな方式等も検討されていたけど、それはアングラ出版が脱法行為をやるときの手口に繋がりかねないと警察から睨まれそうになり、頓挫してしまったとか、法令規制により自主規制が規制されてしまった側面が。
少なくとも不意打ちで目に入らないようにできる程度のゾーニングとなってくると、物理的な制約になってくるので、そんなに柔軟に細かく分けることはできないわけでして、そこに一定の限界はあるかと思うんですよね。
もっと言えば、本の書き手や編集者たちが、ゾーニングを受け入れて、アダルト流通の内側に収まろうとしたら、ポルノとしてのマーケティングに迎合した内容やスタイルに、自分たちの方が変わらざるを得なくなってしまうという副作用だって、無視できないわけなんですよ。
例えば、一部の県で有害図書に指定されている『自殺の歴史』(国書刊行会)ですが、じゃあ、実際問題として、アダルト流通のコーナーにこの本を置けますか、置けたとしてまともに流通できますかと考えると、少なくとも現行の流通の慣習の中では置き場がなくなってしまいそうなわけでして。
アダルト流通というのは、誰もが使える流通網ではなく、基本、ポルノ屋さんのマーケティングに特化したものしか流せない構造なんですよ。だから私は以前から、ゾーニングの強化は方法を間違えると、最終的にポルノしか救済できなくなる危険もあるよと警鐘を鳴らし続けているんですね。
この記事が、これからの争点になるポイントを見越して、双方の主張をよくまとめている。 twitter.com/BFJNews/status…
表象批判側だけでなく、そういった表現の愛好者の人たちの側も、安易にそれを「美少女」等と呼びっぱなしにするのではなく、確かにそのように用いる単語の重なりはあるのだけど、実は違う集合関係が生じているよねという留意を持っていくことの意味もあるんじゃないかという気はするんですよね。
最近の、VRアバターなどをめぐる表象の議論を見ていて思うのですが、「女性」と呼ばれているものが「女性」なのかどうかは、立ち止まって考える必要があるんじゃないですかねぇ。
それは「女性的なジェンダーのあり方」と「世間からみなされること」「女性に対して押しつれられること」が多かった要素であって、実は女性でも女性固有のジェンダー表現でもなく、むしろそれを女性とみなす前提で議論が始まることにこそ、問題の本質はあるんじゃないかという気もするわけですよ。
アチョン法の話とか見ても分かると思うんですが、皆が5年後、10年後に直面するメディア規制の問題について、海外の事例を参考に、早い段階から研究しておくことの意味って大きいと思うんですよね。 うぐいすリボンは、そういうことやっている団体なので、よかったら、クレカか振込でご協力ください。 twitter.com/jfsribbon/stat…
まぁ、どう考えたって、総理大臣の状況になれば、公私を跨がざるを得ない雑用もできる人員が必要だけど、政府職員でないと同行・同席させられない場面がでるし、プロパーの職員とかにそれをやらせると問題になるから、身内を秘書官という身分にせざるを得ないという常識的な話だと思うんですけどね。
このあと、18時くらいから、都議会で青少年条例の運用についての質疑があります(藤井あきら都議の一般質問)。条例による指定でAmazon等のプラットフォームから本が消えてしまう問題についても取り上げられる模様です。オンライン傍聴はこちらから可能です。 gikai.metro.tokyo.jp/live/plenary-s…
女性とケア労働のイメージを固定化させたくないという要請と、でも自分の介護や保育の場面では女性のケアワーカーしか使いたくないという要請とが、同じ論者(女性)から語られているのを拝見し、そこの難しさもあるんだろうなと思った。 個人的にはベイマックスやらドラえもんのデザインが落ち着く。
同じ「取材の謝金」といっても、例えば、暴走族の友達に噂話を聞かせてくれた謝礼を渡すのと、自動車工学の専門家に改造マフラーの騒音の知見を提供してくれた謝礼を渡すのとでは、意味合いが違ってくるので、一緒くたに論じても意味がないと思うんですよね。
これからは生活費が安くて快適な国として、独身のリモートワーカーがホテル暮らしをするような国として外貨を稼いだらいいんじゃないかな。カリフォルニア・テックあたりを卒業したオタク系のエンジニアさんとかに、日本の高級ホテルで引きこもり生活をエンジョイしてもらうんだよ。