飯間浩明(@IIMA_Hiroaki)さんの人気ツイート(古い順)

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こちらもお教えください。次の文の「重複」をどう読むのが、ご自分にとって自然ですか。 「データの一部が【重複】していたので削除した」 (1) じゅうふく (2) ちょうふく これまた、どちらの読みも辞書にあり、正誤を問うのではありません。
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「重用」「重複」の読みの調査にご協力ありがとうございます。おかげさまで有意義な結果が出ました。それぞれリンクしておきます。 ・重用 twitter.com/IIMA_Hiroaki/s… ・重複 twitter.com/IIMA_Hiroaki/s… 〔解説続く〕
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話がほぼ通じないことで有名な、どうぶつ国のSNS「リプッター」。
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「9月新学期案」に関して安倍首相が〈前広にさまざまな選択肢を検討していきたい〉と用いた「前広に」ということばが、若干話題になっているようです。このことば、『三省堂国語辞典』では1982年の版から項目を立てています。〔続く〕
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毎日校閲・岩佐さんの論。「違くて」を校閲者として「認めがたい」のは当然で、高い職業意識の表れです。報道に「違くて」とあったら大変。一方、若者同士で「違くて」と言うのは、認めがたいも何も、現実の話しことばです。批判の範囲をそこまで広げるのは無理です。〔続く〕mainichi-kotoba.jp/blog-20200502
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私たちの日常言語は、報道の文章とは大きく異なっています。もっと言えば、私たちは教師や校閲者の口出しを受けずに話す権利があります。その中で、仲間内でよく通じることばが生き残ります。作詞家がそのことばをすくい取って作品にするのも自由です。それらは「間違ったことば」ではないのです。
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新聞社の入社試験で「違うかった」と書いた人がいれば、私も当然、疑問符をつけます。それは、日常の話しことばと、改まった書きことばのスイッチングがうまくできていないからです。決して「間違った日本語を使っているから」ではありません。入社後、そこはアドバイスするのが望ましいでしょう。
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「違う」は動詞であって形容詞ではありませんが、それを「形容詞としてとらえ」てできた「違くて」「違かった」などは、明らかに形容詞と同じ活用なので、分類するならば形容詞です。活用形の揃わない自立語の例はあります。「大きな」は「大きだ」とは言いませんが、形容動詞とする説があります。
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「国語学者は一般的に言葉の正誤を言いたがりません」との岩佐さんのご指摘。これは「言いたがらない」というより、言いようがないのです。何しろ「正誤」の客観的な基準がないから。客観性を欠いた調査研究は、当然評価は低くなります。自分が主観で研究していると「言いたがる」研究者はいません。
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森山卓郎・渋谷勝己編『明解日本語学辞典』(三省堂)が刊行されました。買った記念に写真を載せます。最新の研究を踏まえ、関係者はもとより、日本語(学)に関心のある一般の人にも参考になる内容です。一読者として推薦する次第であります。
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検察庁法改正をめぐって、「政権が恣意(しい)的な運用ができる余地がある」と指摘されました。この「恣意的」の意味が分からない、という声があります。「恣意的」とは「(1)これといった規則がない」または「(2)勝手気まま」の意味で、「恣意的な運用」の場合は(2)と考えてOKです。〔続く〕
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3月の日経記事審査部によるアンケートでは、「恣意的」を「意図的」の意味で使う人が多い結果になっています。でも、設問の例文(「記者会見で恣意的に質問者を選んだ」)の場合は、「意図的に」とも言えるし、また「自分勝手に」とも言えるので、設問が適切でない気がします。twitter.com/nikkei_kotoba/…
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「恣意的」は「意図的」と意味的に重なる部分があります。「恣意的に選ぶ」という場合、自分に都合のいい判断が入り込むので、「意図的」と言い換えることができます。ただし、「恣意的=意図的」ではありません。「文字を意図的に大きく書く」は「文字を恣意的に大きく書く」とは言わないでしょう。
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『明鏡国語辞典』第2版は、「恣意的」について〈「意図的」(=あるもくろみをもって行うさま」の意で使うのは誤り」としています。でも、これは断定しすぎです。もちろん「恣意的=意図的」ではないのですが、「恣意的」と「意図的」には重なる部分があるので、誤りとまでは言えません。
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冒頭で述べた「恣意的」の「(2)勝手気まま」を「誤用」とする説もネット上にありました。それについては、以前否定したことがあります(リンク参照)。今回は「恣意的」の意味を再説し、あわせて「意図的」と言い換えられる場合があることについて述べました。
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読書案内。ステイホームの間に、大長編の、古典中の古典を現代語訳で読んではどうでしょう。「角田源氏」は、現代語すぎる部分もあるほど、現代小説のことばで訳しています。古典の知識がなくても「源氏」が読めます。▽源氏物語 上・中・下 角田光代訳 河出書房新社 yomiuri.co.jp/culture/book/r…
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zoomなのか、Zoomなのか、ZOOMなのか……。
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朝ドラ「#エール」(5/22)で早慶戦を体験した音が「鳥肌まで立っちゃった。すごかったね」。「鳥肌が立つ」は「本来、寒さや恐怖を表す」と言われますが、感動や興奮を表すことは、この頃(昭和1桁)にありえたのか。実は、この頃にもあったし、平安~鎌倉時代の『宝物集』にもあります。〔続く〕
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「鳥肌が立つ」を感動や興奮に使うのは〈一九八〇年代後半から〉と『三省堂国語辞典』にあります。でも、『日本国語大辞典』では小林多喜二「不在地主」(1929=昭和4年)の〈身体に鳥膚が立つ程興奮を感じた〉という例を載せます。『宝物集』の例も踏まえると、『三国』の説明は見直すべきかも。
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「鳥肌が立つ」が、少し前まで寒さや恐怖に使うことが多かったのに対し、現在は感動や興奮の意味で使うことが非常に多くなったのは確かです。ただ、これは単に割合の問題かもしれません。先入観にとらわれずに調べれば、感動・興奮を表す古い例はもっとあるのではないか。興味深く思います。
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同人誌の作家さんが文章を批判されて当惑している、というツイートがありました。たとえば「眉をひそめる」は心配事などの場合以外に使えないと指摘されたそうです。作家さんの文章を見ると〈眉をひそめその席を立った〉など、私には違和感がない使い方で、別に批判は当たらないと思いました。
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どんな文章も、細かく見れば表現の粗い所は見つかるものです。世間で言う「誤用」でなくても、一般的でない表現になることも。通じない表現は改めたほうがいいけれど、行き過ぎると、せっかくの個性的な表現を失う恐れもある。周囲の人に読んでもらって、違和感を持たれなければ十分だと思います。
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なお『三省堂国語辞典』の「眉をひそめる」を見ると〈①いやそうな顔をする。眉をしかめる。 ②心配そうな顔をする〉で、カバーする範囲は広いです。また、辞書には文字どおりの意味(「窓から手を出す」の「手を出す」など)はありません。「眉をひそめる」は単に眉にしわを寄せるときにも使います。
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若い著者の文章で、全体としては自由なことばの使い方をしているのに、いわゆる「誤用」として有名な語句だけ、妙にマニュアルどおりに使っていることがあります。「ならば問題ないだろう」と言われそうですが、ラフなことば遣いの兄さんが、時々急に敬語になるような不思議な感じがあります。〔続く〕
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たとえば、若者の会話を描写した小説で、「ガチで」「くっそ○○」「○○してたっぽい」などの言い方は出てくるのに、なぜか「見れる」を「見られる」、「出れる」を「出られる」と「ら抜き」を避けていることがあります。「正しい日本語」というより、小説的に加工された会話という印象を受けます。