spartacus alias『消え去る立法者』(@accentdeverite)さんの人気ツイート(リツイート順)

身分制社会の解体後、近代社会で人間は「何者かになる」ことを強制される。若い人が感じるプレッシャーは大抵そこから来る。カントの教えにもかかわらず、「大人」になることは「世界市民」になることどころか、分業体制の一齣になることであり、「社会」に出ることは「会社」に入ることと同義なのだ。
ハイデガーの『真理の本質について』を読んでいたら、うちの小学生がタイトルを見て、えらい大きくでたなー、と言うので大笑いする。
大江健三郎没。間違いなくWWII後最大の小説家が亡くなった。でも、周期的に自殺の観念に取り憑かれていた人が、こうして天寿を全うされたのだな、とも思う。大江健三郎ほど、読むこと、書くことが生きることだと教えてくれた小説家はいなかった。
ウォーラーステイン没。彼の世界資本主義論は、60s、第三世界主義・脱植民地化後の帝国主義批判の勃興と軌を一にした世界同時的現象だった。日本でも、京大人文研の世界資本主義研究に参加していた角山栄が、いち早くウォーラーステインに目を付けていたと聞く。
いまや大学院生になると、バイトせずに学資・生活費全部親がかりの者など少数派だろう。そうやって学生にバイトさせて労賃を下げ、またいざという時の雇用調整に宛ててきたのも、この国のやり方だ。学生は、もっと多くの者を救え、と訴えたっていいと思う。
後藤田が平和主義者に見える時代や、野中が立派な保守政治家に見える時代を経て、ついに森喜朗がまっとうなことを言う時代が来た。長生きはしたくないものである。 twitter.com/Khovtoliv/stat…
いきなり「脱炭素」とか言い出したのは、まちがいなく原発再稼働のためだと思っていたが、それどころか、新設するっていうのか。どこまで旧時代の産業資本と心中するつもりなのか。 twitter.com/skasuga/status…
哲学者ってなんであんなにエラそうなんだろうなと思うことがあるが、文学部というところでわかったのは、哲・史・文という伝統的な言い方は、単なる順番ではなくて元々、序列なのだなということだった。蓮實重彦風にいうと、哲学者はエラそうなのではなくて、エライのだ。
ふと思ったが、最近の英語論文がやけに平明なのは、外国語話者が英語で書いているのみならず、校正ツール導入による規格化もあるのかもしれない。ヒュームからポーコックまで、英語の文章はフランス語以上に長く複雑で(こちらの読解の技量はさておき)、本来決して平明ではなかったはずなんだが。 twitter.com/yktlavie/statu…
ラカンによれば、日本語話者には精神分析はいらない。その一つの理由が、漢字かな交じりの音読み・訓読み並列システムであり、もう一つの理由が「礼儀作法」、つまりあらゆる発話を、誰が誰に対して語るかを社会的・言語外的なコードを参照して規制するシステムだった。
ブルガリアで学卒のタクシー運転手が、社会主義時代は自由がなくて外国に行けなかったが、今は自由はあってもカネがないので外国に行けないと嘆いていた。自由主義はカネが回っているときには機能するが、ひとたびカネが回らなくなると、自由=富から排除された者たちの激しい異義申し立てに曝される。
王様は裸だ、という言葉が暴露として機能するには、少なくとも、裸で人前に出歩いてはいけないという了解が成立していなければならないが、いまや裸だと言われた王様を、みんなして、いや裸だけど何か?と開き直って擁護する。
大江健三郎が「戦後民主主義」という符牒に収まりきれない人なのは小説を読むとすぐ分かるが、同時に、大江さんが極右から極左までのテロリスト的欲望の「正統性」を承認しさえしながら、「戦後民主主義者」を標榜したおかげで、「戦後民主主義」自体が随分懐を広げたところがあったと思う。
安倍退陣、twの白熱ぶりを見ると—自分もだが—、つくづくみんな安倍晋三が「好き」だったのだなと思う。というより、「安倍晋三」は<現実>の裂け目を塞ぐ対象aのようなものであり、それを弄ぶことで皆が<政治っぽい>ゲームを演じている気になれた特権的記号だったのだ。困難はむしろこれからだ。
『法の精神』では、個人の自由が刑罰との関連で論じられている。一つの焦点が「風刺」である。それによると、風刺が最も厳しく罰されるのは、風刺で支配層が揺らぎうる貴族政である。民主政においては権力者の抑制のため、風刺は全く自由にされる。日本の現行体制がどちらに近いかは明らかだろう。
バブル時代の子は、乱痴気騒ぎを拒否していた者も、なんらかの恩恵を被っている。何よりカネがあったから、面白いもの(映画・芝居・展覧会etc.)はたくさん見れた。先々の展望もないのに大学院にも進めた。いまや、学費の値上がりと貧困化の下、若い人は真面目であればあるほど大学院進学を躊躇する。
昔は毛嫌いしていたのだが、京都の街は好きになった。古都の伝統や住人気質ではない。この街にはサラリーマン然とした人がいたって少ないのだ。自営業者と学生が多い街。そこから独特の自主独立の風が来るのだと思う。たしか20代人口比は全国一。日本では数少なくなった老若男女の住む街である。
日本の旧国立大学にはラフカディオ・ハーンやケーベル先生の昔から御雇外国人の制度があり、90sまで残っていた。独立法人化後消滅。その結果、語学文学系に残る外国人教師は、日本人並(以下)の賃金・雇用条件に切り下げられた。長い「文明開化」の終わりで、それ自体はよしとしよう。
モンテスキューとルソーを中心に、立法者の形象に焦点を当て、政治論と歴史論の核心を取り出そうとした書物です。 「気鋭」は「労作」など書かないのではないかという疑いが拭えませんが、『法の精神』、『不平等起源論』、『社会契約論』を読み直すきっかけとなれば幸いです。 twitter.com/UN_Press/statu…
学術会議の軍事研究反対は、ある種「最後の砦」として死守すべきだと思うが、直接・間接に「軍事」にかかわらない科学技術などない。事態は「イデオロギー」としての人文科学にしてもそう変わらないと思う。
『政治少年死す』(山口音矢)に始まり、『河馬に噛まれる』(連合赤軍)を経て『宙返り』(オウム)まで、大江健三郎はWWII後日本のテロリストたちの魂を鎮めるように小説を書いてきた。とても私的な動機に突き動かされていたらしい今度の犯人に、同じことができる作家がいるだろうか。
かつて留学生寮を集めた大学都市があったのは、モスクワとパリだけだったという。いずれもイデオロギーによって覇権を握ろうとした国々である。いまやフランスでは、留学生(博士)から50万円もの登録料をせしめる計画が持ち上がっている。西欧の没落、である。トルコは西欧に取って代わるだろう。 twitter.com/masanorinaito/…
蓮實重彦の『フランス語の余白に』には、フランス語を習得しろとは言わないが、それなら英語くらいは身に付けておけ、その際、国際親善だの文化交流だのといった美辞麗句に惑わされてはならぬ、外国語というのは外国人と喧嘩するために学ぶものである、という趣旨の一節があった。今でも覚えている。
京大は「学生の本分に反する」と称して停学処分を乱発し続けている。しかし、大学が学生を停学処分に処すことの方が、「大学の本分に反する」。京大の100年史を覗いてみれば、全共闘の頃か、学生部長みずからそんな風に言って学生処分を控えていたのが分かるはず。 kyoto-np.co.jp/articles/-/683…
東京オリンピックの後は、大阪万博か。大学では「プロジェクト型」の融資はもう恒例になってしまったが、この間どうやら「国家」さえ「プロジェクト型」に移行しつつあるとらしい。要は「破局」の繰り延べと、成長率ゼロ代の時代の資本主義国家の「気紛らし」=目くらましだ。勝手にやってろ。