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日本で、今日のようにゴッホが愛される、きっかけを作った人たちのなかに白樺派の人たちがいる。なかでも重要な仕事をしたのが柳宗悦だった。雑誌『白樺』はいわゆる文学の雑誌に留まらない。宗教、哲学、芸術を包含する、高次の意味での新しい「文化」の土壌となった。その影響は再考されてよい。
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ヘルニアになって痛感したのは、世の中には平気な顔をして、苦しい日々を生きる人が沢山いることだ。むしろ苦しいときだからこそ、平常を装うことすらある。何もないようにしている方が楽だということもあるのかもしれない。しかし、どこかでは弱音を吐いてよい。それが人間の暮らす世界だと私は思う。
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高村光太郎は自分を彫刻家だと思っていた。詩を書くのは彫刻を純化するためだとも書いている。だが、後世の人は彼をまず、詩人として記憶だろう。彫刻に向かうために、彼はどうしても詩を書かねばならなかった。苦しみにあって、彫刻を作らないときも、彼は詩は書いた。詩とはそういうものでもある。
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「利他」の語源は、19世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントにさかのぼる、という情報はネットを調べると随所にある。だがそれは少しおかしい。なぜなら「利他」は日本語で、平安時代、最澄、空海によって用いられた言葉だからだ。1000年もあとの人に由来を求める必要はないのではあるまいか。
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重い言葉は人目につかず、人の海のなかに沈んでいくだろう。だが、そうした言葉は、何かの理由で人生という海の深みを経験する人に見出される。不思議なことだが人は、海に沈んでいた言葉を胸に抱きながら、もう一度、世に浮かび上がってくるのだ。苦しんでいたのは自分だけではないという確信と共に。
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本は、何を読むかが大切であるのは言うまでもないが、いつ読むのか、さらにいえば、いつ出会えるのかが、最も重要なのではないだろうか。そして、一たび出会ったものとの関係をどのように深めていくかに挑戦がある。多くの本を読むのもよい。しかし、生涯と共にするような一冊に出会えたらなおよい。
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良い本があったので、アマゾンでレビューを書いた。同じ本で☆1つの評価をしている人がいたが、そこにあるのは良し悪しの判断ではなく、嫉妬や恨みに似た何かのように感じられた。他者を不自然に低く評価しない方がよい。その人はいつか気が付かないうちに、自分自身もそうした眼で見るようになる。
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「AIは人間を超えるか」という論議を聞くと辟易するのは、それを語る人が、じつにAIの機能に詳しい一方で、人間とは何かの認識が、驚くほど浅薄なことが多いからだ。人間とは何か、これは哲学の歴史と同じくらい古く、そして今も謎である問題だ。私たちはこの現実をもう一度噛みしめてよい。
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AIは常に最適な答えを提示するのかもしれない。だが、そんな人とは「知り合い」にはなっても親友にはなれないだろう。AIは、おもいを胸に秘めたまま、一緒に苦しんだりはしないだろう。あるいは、見えないところで祈ったりもしないだろう。人間はそもそも「知能」だけで生きているわけではないのだ。
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25年前の今日、遠藤周作が亡くなった。あの日私は、20人ほどの仲間と遠藤の親友でもあった井上洋治神父と一緒にいた。遠藤順子夫人から、作家が危篤であるとの電話があり、慌てて通りに出て、タクシーをつかまえ、神父を病院に送りだした。この作家を知らなかったら全く違う人生を生きていたと思う。
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祈っているだけではだめだ。何かをしなくてはならない、というような言葉をしばしば聞く。一面の真理だろうが現実はもう少し複雑で、祈るほかないときもあるし、祈ることから始めなくてはならないこともある。理知では不可能に感じられたことでも、祈りのうちにある決意が訪れることもあるのだ。
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親しい人が亡くなると、いつか自分も逝くのだと改めて思う。そしていつか、ではなく、どんな時期であれ自分が思っているよりも早く、必ず死ぬのだ。本当に大切な人たちとの時間を愛しみたい。自分だけで生きているのではない。人々と共に生きている。そんな素朴なことが人生の宝物のように感じられる。
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私たちは、自分が本当に「弱い」存在であることをもう一度噛みしめてよい。自分の力で生きてきた、そう思うときは、単に自分を支えてくれている働きが見えていないだけなのだ。人は、自分が知らない人によっても、むしろ、そうした人たちによって支えられている。弱くてよい。それが人間だからだ。
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いつからか、この国は「能力」を評価し、そこに意味と価値があると考えるようになった。それは仕事上だけでなく、教育の現場にまで巣食っている。私たちは、もう一度「存在」の意味と重みを学び直さねばならない。「存在」はつねに、評価の次元を超えて尊ばれなくてはならない。
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人間は材料ではない。唯一無二の「いのち」である。材料と同じだと考えなければ「人材」という言葉は出てこない。「優れた人材」もいるだろう。だが「人材」には常に代わりが存在する。「人材」は重用される。だがけっして愛されない。この問題は「いのち」を軽んじる今の日本と無関係ではないのだ。
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素晴らしい。本当に素晴らしい。 twitter.com/kokoro_odoru_1…
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リーダーシップとは、人々から信頼を得ることだが、いつからか、いかに自分を主張するのかという方法論へと堕落していった。これほど信頼を得ていないリーダーが各所にいる時代は、近年、稀なのではないだろうか。リーダーシップを発揮し、人々を守るべきところで、ひたすら自分の思いを話すのである。
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利己的で、いのちに鈍感な者たちが、「偉く」「強い」とされるような世の中は、どう考えてもおかしいと思う。
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本当の意味で「成長」したいなら、植物がそうするように、まず深く根を張らねばならない。いたずらに上に向かうよりも、深く下へと進むのだ。人の目に見えるようにではなく、自分にしか分からないように、さらにいえば、自分にすら分からないよう進む。宮沢賢治がいう「透明な軌道」を歩くのである。
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古典を読んでいて、ほとんど遭遇することがないのが、右肩上がりの「成長」を促す言葉、考え方だ。ただ、それを戒める言葉ならいくらでも出てくる。それに引き換え、現代の啓発書は、著しく「成長」を説く。古典を読んだ方がよい。古典はさまざまな人間の誤りの上に生まれるのである。
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大学にいると、出来ないことがよくないことのように語られる。よりよく「できる」人が優秀だと信じられている。しかし、私が人生で経験したのは、まったく違う現実だ。何かが出来るのはよい。しかし出来ないことがあってよい。そこに、様々な発見や出会いや友情、愛情といった出来事が起こるからだ。
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コロナ危機になってからずっと怒っているような気がする。私憤に流されまいと、自分を鎮めてきたが、怒りを感じなかった日はなかった。真実とか誠意とか真摯という態度を、片っぱしから愚弄してきたこの国のありように、あるいはその手先になっていることに何の疑問も持たない人々にずっと怒っている。
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人の「いのち」とは何かを、真剣に考えてみなければ、それを重んじているのか、軽んじているのかも分かりはしないだろう。コロナ危機は、さまざまな意味で「いのち」とは何かを見つめ直す契機だったはずだ。しかし、この国は政治や経済だけでなく、さまざまな場面でその機会を見逃したのだと思う。
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本を読むのは、多くの情報や知識を得るためであるよりも、深く考えられるようになるためだ。知が力であるように見えるのは幻想だ。知識だけではない。どんなものでも、単に多く得たところで仕方がない。それを思慮深く用いることができて、初めて生きた知恵になり、叡智になる。叡智こそが力なのだ。
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哲学や思想の文章を読むのには、少しだけ修練が必要だ。だが、いつか、必ず読めるようになる。それはある単語について詳しくなるというよりも、その哲学世界を、あるイマージュで捉えられるようになり、それが自分のなかで非言語的なコトバとなり、言葉になっていく。