若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(新しい順)

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本は、師であり友でもある。生きる道に迷ったとき、歩き続ける勇気が湧かないとき、あるいは悲痛を噛みしめ語ることがままならないようなときでも、無言のまま寄り添ってくれるのは書物である。また、人生の危機だけだけなく、何気ないとき、共にあって、心に安らぎを覚えるのも師友である。
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自作が掲載された高校の教科書が2冊送られてきた。大学受験で国語があるところはすべて落ちたような人間の書いた文章が掲載されるのである。世の中、何があるか分からない。ついでに、毎年20~30校の高校大学の入試でも問題になっているのだが、書いている本人もじつは、答えは分かっていないのである。
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読書は不思議な営みだ。書かれていることが十分に理解できなくても、行間にある何かがある確かさで感じられる場合ある。文字に表れていない何かを知性とは異なる認識の力が把握するのである。むしろ書かれていることだけを理解する読書の貧しさをこの頃、強く思う。大切な人からの手紙も同じだろう。
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奇妙に聞こえるかもしれませんが人は、ある「解答」を手に入れたとき、大きく誤ることがあります。探求と探究を止めるからです。そのいっぽうで、真摯に問うとき、生きづらいのですが、大きな誤りからは遠いのではないでしょうか。「答え」は情報を与えてくれます。「問うこと」は叡知へと導きます。
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昨晩の「100分de名著」をご覧下さった方からこれまでとは別種の熱い反応を頂きました。こうした時期にトルストイ、そして北御門二郎にふれ、真の意味で愛と平和を再考する機会に携われたことを光栄に思います。大切なのは「解答」めいた言説ではありません。真摯に問い続けることなのです。 twitter.com/nhk_meicho/sta…
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8月1日(月)22:25~、100分de名著「for ティーンズ」に出演します。トルストイの民話『人は何で生きるのか』を取り上げます。周知のようにトルストイは、「反戦」というよりも「非戦」を説いた人でした。訳者の北御門二郎も同じです。そして「神は愛なり」という一節が、この作品の核心です。
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気が付けばもう8月です。1日(月)、100分de名著特別シリーズ「forティーンズ」にトルストイ作『人は何で生きるか』(北御門二郎訳)の指南役として出演致します。ご覧いただけましたら幸いです。いつもながらよき番組スタッフの皆さんとの意味深い仕事でした・加藤シゲアキさんも素晴らしかったです。 twitter.com/100min_Meicho/…
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何らかの成果を出さねば優れた人にも、すごい人にもなれないだろう。しかし人は、存在しているだけで貴く、また尊いのではないだろうか。現代社会は「とうとさ」を見失った。この実感を取り戻さないかぎり、人間の価値はいつも比較のなかでのみ決定されることになる。貴さとは唯一性の異名でもある。
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美術館は、絵や彫刻を見るために行く場所には違いないが、もう少し、実感を精確に言葉にすると、絵や彫刻などを扉にして、見過ごしていた自分に出会う場のように感じる。稀有な作品だと思って出かけても、真に心動かされるとき人は、美に遭遇しているだけでなく、自己とも出会い直しているのだと思う。
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世の中で起こる全ての事にすぐ反応する必要はないのです。身を沈め、心を鎮め、力を蓄える日々があってよいのです。世の中を、様々な言葉が行き交うときでも、だまって、じっとしている日があってよいのです。世間がざわついているときでも静かな時を過ごしてよいのです。よい夜を。おやすみなさい。
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恐怖の心情が人間から奪うのは、いつくしみであり情愛である。恐怖や動揺に心を乱されたくないなら、自分と他者と、この世界をいつくしむのがよい。人が何かを大切にするように、他の人にも大切なものがあることを噛みしめてみるのもよい。「強さ」で切り抜けるのではなく「弱さ」で支えあうのもよい。
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真面目であるよりも、真摯であることが大事なのかもしれない。「真面目」は、世の、あるいは誰かの基準に合わせて生活することのように思われるが、「真摯」は、自らの人生からの問いに、ちゃんと向き合うことだからだ。真摯は一生懸命とも違う。もっと静かで、かつ持続的な語感を、私は感じる。
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自分を愛するとは、自分を甘やかすことではない。真に愛してくれる人が、必要なとき厳しくなるのと同じだ。自分を愛し始めると人は、自分と誰かを比べなくなる。他者を比較の視点で見なくなる。それだけで生きるのはそうとう楽になる。自分になるのに、どうして隣の人よりも秀でなくはならないのか。
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大学に勤務していて、つらく感じたのは、あらゆる所で比較と競争が横行していることだった。人は、己れという絶対を発見しながら、他者もまた、絶対的存在である事実を認識するのだろうが、そうしたことが空論に聞こえるほど比較と競争が日常化していた。そして、それがよいことのように行われていた。
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本を熟読する理由が、作者の考えをよく理解するためだけだとしたら、実にもったいない。読むとは、書き手さえも気が付かない何かを発見することだからだ。そして、書くとは、意識だけでだけなく、今という時と、心の奥にあるもののはたらきに支えられながら言葉を生むことにほかならないからだ。
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読書には大きく四通りの出会いがある。その本の存在を「知る」「手にする」「読む」そして「対話する」だ。最大ハードルは「読む」と「対話」の間にある。多くの学校では「読む」という地点が読書の終着点であるかのように語る。「対話」の第一歩はその本を鏡にして自己を見つめ直すところに始まる。
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「分かる」とは何らかの意味で「変わる」ことだといったのは歴史家・阿部謹也の師である上原専祿だった。あることが本当に「分かった」か否かを確かめるには、自分のなかで、何かがか「変わった」か否かを確かめればよい、というのだろう。本当のことだろうが、なかなか厳粛なことだとも思う。
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年齢を重ねてくると、若い頃にもっと学んでおけばよかったと感じることが、しばしばある。若さとは、楽しむために与えられた条件であるよりも、むしろ、学ぶために準備された時間なのだと今さらながらに思う。
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自分は誰かよりも優れているというのは「勉強」の基準だろうが、「学び」の世界では常識が違う。「あの人は自分よりもある事で優れている」、そう自然に感じられるように学ぶのである。誰かよりも優れたままでいたいなら、ずっと競争していればよい。しかし、自分の人生はいつまでも始まらないままだ。
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数年前は今の自分のありようなど予想もできなかった。そう感じている人は少なくないだろう。人の一生は、自分の力で生きるというよりも何かのちからによって生かされている。だから、いかに生きるかだけを考えるだけでは十分ではない。どこからかやってくる人生の風をいつも感じていなくてはならない。
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ひとは 悲しいから 泣くとは限りません 悲しみは むしろ 涙が涸れてから 深まるのです ですから 忘れないでください 悲しみを生きるほかない 多くの人は ほかの誰もが 気が付けない場所で 独り 心を震わせながら 生きているのです だから簡単には  元気そうだね なんて 言わない方がいいのです
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心にある「おもい」はたいてい、自分には大切なことでも、他者には取るに足りないことのように感じられる。不思議なことだが、真剣に「書く」ことによって、その取るに足りないはずのことが、新しい意味を持つようになる。生まれてきた言葉が、自己との関係を強め、他者とのあいだを架橋するのである。
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どんな場所であれ、自分を評価してくれる人を探すのは、ほどほどにした方がよい。評価の眼はいずれ、違う人を見るようになる。「よい人材」が、数年後にはまったく顧みられなくなるのが現代ではないのか。人を愛し、仕事を愛せればそこに、評価とは別な、本当の価値と重み、そして意味を見出すだろう。
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書物や芸術に多くふれながら、優劣を評価するのに忙しく、愛することを知らない日々が、どれほど貧しいかは、書物や芸術を「己れ」に置き換ればよく分かるだろう。評価の眼はいつも比較して見ているが、愛の眼はそのものを見る。評価の声は、いつも時代的で冷たいが、愛の言葉は古びることがない。
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本を読むのは、記述内容を理解することよりも、この世界、あるいは人間のありようを深く感じるためかもしれません。読書は、文字を通じてだけ行われるのでもありません。イメージや感触、直観による認識も意識下では生きています。よく理解できなかった、そんな本からも影響を受けるのはそのためです。