若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(新しい順)

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つくろい東京ファンド・東京アンブレラ基金の皆さんが、とても大切な活動を始めました。今の日本だけでなく、これからのこの国のありかたに一石を投じる試みになると思います。私も参加しました。お力添えをいただけましたら幸いです。詳しくは、こちらをご覧ください。⇒ congrant.com/project/umbrel…
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食事は、しばしば長い時間をかけて味わう。それなのにどうして、本を読む場合は味わうよりも、早く、多く読むことがよいことのように語られるのだろう。食物が身体の糧であるように、言葉は私たちの精神の糧ではないか。早く食べるだけでは栄養にならない。「身」に入っても素通りするだけだろう。
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本を読めなくなったら  書くときだ 書けなくなったら  つぶやくときだ つぶやくこともできなくなったら  嘆くときだ 嘆くことができなくなったら  うめくときだ なぜなら  声を出さずにうめくことは 言葉にならない  別の姿をした祈りだからだ
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「学ぶ」意味は、異なる世界観、価値観を持つ人、共同体、時代とも対話できるようになることであって、好みによって、対象の「よしあし」を断じることではないだろう。何かに優れるとは、虚勢を張ることでなく、優れているゆえに他者と分かち得える何ものかを発見しようとすることでもあるのだろう。
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遠くが見えるのは、よいことかもしれない。しかし、どんなに遠くが見えても、近くが見えなくなっているとしたら注意が必要だ。遠くが見えることは、世に重宝がられるかもしれない。だが、近くが見えないときは、大切な人の危機を見過ごすことすらある。愛すべきものは常に遠くにではなく、近くにある。
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誰も自分のことなど気にかけてくれない、そう感じる時でさえも、いつもと変わらずその人を、というよりも、その人の魂を、魂であるその人を見つめている、それが愛するということだろう。だから私たちは、愛されているのが分からないこともある。
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若いときでも、世に生きていくのに必要なものは分かっていた。だから、それを求めてさまざまなことを試みた。しかし、年齢を重ねていくと、世に生きるだけでなく、人は誰も、自分の人生を生きなくてはならないという厳粛な事実を知った。そこでは世の常識とはまったく別種の叡知が必要なことも。
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今週のNHK・Eテレの「こころの時代」は「問われる宗教と“カルト”」の第2回・後編です。土曜日午後1時には第1回の再放送もあります。ダイジェスト版も2本追加されています。今回もそれぞれ10分が2本という異例の展開になっています。 3本目➾youtube.com/watch?v=waqC7Y… 4本目➾youtube.com/watch?v=xOgaeU…
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人生の 浅いところでは 幸運な人たちの 姿が よく目に映った できれば自分も そうありたいと思ったから でも 少し 深いところに行くと 真摯に 生きている人たちから 目が離せなくなる そこにいるのは 人目も 気にせず 試練に立ち向かう 沈黙の勇者たち 涙も流さず 悲しみを生きる者たち
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言葉は種子である 語った人が いなくなってから 咲くこともある 祈りと愛の花々の種である
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文字で記されている本でさえ、言葉を理解するだけでは読み解けないのだから、人生の意味が、頭を使うだけでは理解されないのも当然なのかもしれない。この世界は、言葉の姿をしていない意味であふれている。生きる意味も、ほとんどの場合、目に見えず、口にもできない姿をしているのではあるまいか。
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言葉は、「正しい」ことを言ったり、批判するためだけにあるのではない。自分や誰かを、いたわり、ねぎらうためにもある。言葉は、なるべく丁寧に用いるのがよい。言葉こそ、もっとも「壊れやすい」ものでもあるからだ。言葉は、投げるように用いない方がよい。
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今週、来週のNHK・Eテレの「こころの時代」は「問われる宗教と“カルト”」という問題をめぐって、私を含め6人の宗教者、信仰者、研究者が討論した内容が放映されます。ダイジェスト版も9分強が2本という異例の展開になっています。 1本目➾youtube.com/watch?v=sUO8lm… 2本目➾youtube.com/watch?v=0-WpT8…
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学ぶとは、自分に何かできるのかを発見していく道程だが、その道を歩くには「できない」と感じる日々を過ごさねばならない。別ないい方をすれば、真に「できない」と感じることができれば、人は、時のちからに助けられて「できる」ようになっていく。「できない」とは「できる」始まりなのである。
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対象は何であっても「学ぶ」という営みにはどこかに「貴さ」を認識する道程がなくてはならない。「貴さ」を感じられないとき人は、その対象をひたすら利用する。言葉や色、宇宙でも、もちろん、人間においてもそうだ。「貴さ」を感じるとき、人は自分もまた「貴い」存在であることを知るのである。
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単に考えるだけでなく、思索することが、どうしても必要なのは、人生を決定することの多くは誰かと考えるだけでなく、どうしてもひとりで思いを深めなくてはならないからだ。愛や希望、生きる意味を見失ったとき、それを再び見出すのは、考える力というよりも、思索し、思惟するはたらきなのである。
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売っているものは、私以外の人でも買うことができる。だが、この世には「わたし」だけが見つけられるものもある。誰かが探してくれるものは、他の人に任せればよい。「わたし」にしか分からない、「わたし」にしか見出せないものをこそを探さねばならない。それが生きる意味だからだ。
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多く読むのもよい。しかし、深く読むのにも別の味わいがある。ひと月に10冊読むのもよいだろうが、ひと月を費やして一冊の本と向き合うことができれば、言葉との関係はまったく変わったものになるだろう。本から情報を得るだけではもったいない。私たちはそんな風に人とつきあったりしないではないか。
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誰かを愛しいと感じる。だが、年齢を重ねてくると、「人」だけでなく、今日という一日を愛しく感じる。「時」もまた「人」とは異なる姿をして「生きている」と強く思う。自分以外の誰かに慰められ、癒されることがあるように「時」にも癒されるのはそのためだろう。
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高校生のとき、夏休みに中学生の家庭教師をして「バイト代」を稼いでいた。16歳から何かに強く動かされるように本を読み始めていたので書籍代などが必要だった。故郷にいるとき、どうしても上野の西洋近代美術館で行われている絵画展に行きたいと思った。赴けば稼いだものは消える。
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どうするべきか父に相談するとこう言った。「数万円を使って絵を見に行くと思えば高額に思えるだろう。しかしそれが単に高いがどうかは、これからお前がどう生きるかによって変わってくる。その価値を生めると思うなら行かないわけにはいかないだろう。」翌日、電車に乗り、兄のいる東京に向かった。
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仕事場ではしばしば「人を使う」という表現が用いられる。この言葉を口にする人はしばしば、自分は常に「使う」側であると思い込んでいるように映る。そして、そうした所では、あまり「良い仕事」が生まれない。言葉も同じだ。言葉に力を貸してもらう、という態度で向き合うとき意味の地平が新生する。
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詩集は「読む」とは別の味わい方がある。「書き写す」ことだ。意中の詩集を一つ見つけ、ノートや原稿用紙に書き、「もう一冊」の詩集を作るのである。この素朴な営みに秘められているのは、単なる熟読を超えた、全身で「読む」という経験だ。そして、他者に書かれたとき新生する意味のうごめきだ。
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世の中が激しく動くとき、世のことを考えるのも大切には違いない。しかし自分の生のありようを深く感じ直し、歩みを確かめるのは、いっそう重要なように思う。世のことは、自分以外の人も、あるいは誰かと共に考え得るが、自分の生に関することは、自分以上に真摯に向き合う人は世に存在しないからだ。
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8月6日は、作家で詩人でもあった原民喜にとっても運命の日でした。それまで彼は「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……(「遥かな旅」)という心持ちで生きていました。