『三河物語』によると平岩親吉は信康の身代わりとして切腹を申し出たが、家康は許さなかったという。しかし責任を感じた親吉は傅役の職を辞し、謹慎したという。 #どうする家康
正室は単に当主の正妻というだけでなく当主の留守中はその職務の代行者であり、当主が死亡した場合次期当主の後見役や、状況によっては「女城主」として領国を支配する事もあり、その権限は強いものであった。 #どうする家康 #おんな城主直虎
1561年 主要人物年齢一覧(満年齢) 松平元康 18歳 瀬名   21歳 織田信長 27歳 お市の方 14歳 木下藤吉郎 24歳 今川氏真 23歳 関口氏純 43歳 石川数正 27歳 酒井忠次 34歳 鳥居元忠 22歳 本多忠勝 13歳 大久保忠世 29歳 平岩親吉 19歳 柴田勝家 39歳 竹千代  2歳 #どうする家康
1576年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 33歳 瀬名   36歳 織田信長 42歳 於大の方 48歳 於愛の方 24歳 酒井忠次 49歳 石川数正 42歳 鳥居元忠 37歳 本多忠勝 28歳 榊原康政 28歳 松平信康 17歳 井伊万千代 15歳 穴山信君 35歳 今川氏真 38歳 武田勝頼 30歳 #どうする家康
月代(さかやき)という髪型は昔から存在し、以前は戦の時だけ兜の中の蒸れ防止の為剃っていた。戦が100年以上続いた戦国期、具体的には信玄・謙信・信長らが活躍した頃に男子の日常的な髪型として定着していった。剃刀が一般に普及したのもこの頃で、月代の習俗化の推進に一役買った。 #どうする家康
織田信長は当初武田勝頼の事を「甲州の信玄が病死した。その後は続くまい」と侮っていたが、後にその武勇と軍略を知って考えを改め、「日本にかくれなき弓取」と評価したという。#どうする家康
水野信元(?~1576)は於大の兄、家康の伯父、尾張国緒川城主。水野家は鎌倉以来の名門で、先祖の水野経村は近衛家出身とされ、かの三浦義村が乳母夫を務めたという。その後水野家は知多半島を拠点とする有力国衆として300年以上に亘って存続していた。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
1203年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 40歳 北条政子 46歳 北条時政 65歳 八田知家 61歳 北条泰時 20歳 北条時房 28歳 和田義盛 56歳 三善康信 63歳 畠山重忠 39歳 大江広元 55歳 源 頼家 21歳 仁田忠常 36歳 千幡   11歳 一幡   5歳 善哉   3歳 #鎌倉殿の13人
瀬名の母・巴(関口夫人、?~1562)は #おんな城主直虎 における「佐名」と同一人物。今川義元の妹(または義妹)とされ、一説には井伊家出身で義元の側室となった後に「妹」の身分で関口氏純に嫁いだとされる。宝塚の元トップスターがキャスティングされたのは意図的なものであろう。#どうする家康
源頼朝が倒れた要因について、戦前期の医学史家の富士川游氏は「状況から推して卒中風(脳内出血)と診断すべきであろう」という説を唱えている。 #鎌倉殿の13人
武田勝頼は勇猛果敢で武芸に優れ、『甲陽軍鑑』に「強過ぎたる大将」と評されるほどであった。側近たちも選りすぐりの精鋭たちであり、その中には真田家出身の加津野信昌(後の真田信尹)も居た。 #どうする家康 #真田丸
山田八蔵は大岡らの陰謀を密告した功により500石の加増を得たという。彼の屋敷のあった三河国柿碕村(現・愛知県安城市柿碕町南屋敷)の屋敷跡には彼の墓とされる塚が残されている。 #どうする家康
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え 徳川家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘に婿を世話してやった。 #どうする家康
泰時の正室・初(1187~1256)は後に泰時と離婚、三浦一族の盛連と再婚した。宝治合戦で三浦一族の大半が滅ぶと初の再婚後の息子・盛時が三浦家を再興、16世紀初頭まで三浦半島の領主として君臨した。その末裔の娘とされる於萬は徳川家康の側室となり頼宣・頼房を産んだ。 #鎌倉殿の13人 #どうする家康
1561年 主要人物年齢一覧(満年齢) 松平元康 18歳 瀬名   21歳 織田信長 27歳 於大の方 33歳 今川氏真 23歳 関口氏純 43歳 石川数正 27歳 酒井忠次 34歳 鳥居元忠 22歳 夏目広次 44歳 飯富昌景 37歳 本多忠勝 13歳 久松長家 35歳 大久保忠世 29歳 武田信玄 40歳 #どうする家康
本多正信は三河を出る際に家族を大久保忠世に預けていったという。正信の妻はこの時妊娠していたようで、翌年の1565年、嫡男の本多正純が生まれている。 #どうする家康 #葵徳川三代
1190年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 27歳 北条政子 33歳 北条時政 52歳 源 頼朝 43歳 阿野全成 37歳 九条兼実 41歳 和田義盛 43歳 三浦義澄 63歳 大江広元 42歳 千葉常胤 72歳 安達盛長 55歳 畠山重忠 26歳 梶原景時 50歳 丹後局  39歳 後白河法皇 63歳 #鎌倉殿の13人
家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘・貞姫を家臣に養育させ、成長後に婿(足利尊氏の四男・基氏の子孫の宮原義久)を世話してやった。 また勝頼戦死の地に菩提寺・景徳院を建立し勝頼主従の墓も作らせている。 #どうする家康 #太平記
#何年たっても忘れられない大河ドラマ 「青天を衝け」 全く期待していなかったので、ある意味虚を突かれたような良作だった。渋沢栄一という馴染みの浅い人物を演じきった #吉沢亮 氏の熱演と、徳川慶喜の評価を一変させた #草彅剛 氏のしなやかな好演が印象的。
海野幸氏(1172~1250?)は木曽義仲・義高の家人で、信濃の名門豪族滋野一族の嫡流海野氏の第10代当主。幸氏以後の海野氏は信濃で大いに栄え、約300年以上にわたり信濃の有力国衆として活躍した。真田幸隆・昌幸・信繁らを輩出した真田家も幸氏の子孫とされる。 #鎌倉殿の13人 #真田丸 #武田信玄
平盛綱(生没年未詳)は執権北条氏・得宗家の家司で内管領長崎氏の始祖。通称は三郎兵衛尉。8代執権時宗に仕えた平頼綱、14代執権高時に仕えた長崎円喜・高資親子はいずれも盛綱の子孫である。 #鎌倉殿の13人 #北条時宗 #太平記
平賀朝雅の誅殺後も平賀家は存続したが武家としては衰退していき、鎌倉時代末期には新田義貞の配下に属していた。また、朝雅の甥・惟信の子孫は公家・竹内家として存続、戦国期の当主・竹内季治は公卿まで出世したが失言で織田信長を怒らせ斬首されている。 #鎌倉殿の13人 #太平記 #麒麟がくる
「戦さは嫌い」みたいなセリフをどのタイミングで、誰に言わせるかでそのドラマの脚本のセンスの良し悪しが決まると言っていいが、このタイミングで畠山さんにこのセリフを言わせるとか、さすが三谷さんとしか言いようがない。 #鎌倉殿の13人
奥平信昌(1555~1615)は奥三河・作手の国衆。当初は武田方だったが調略により徳川方に寝返った。その際信長から家康の娘・亀姫との結婚を求められ、武田家の人質だった妻・おふうを苦渋の決断の末に見捨て、おふうは処刑された。信昌はもう後戻りできない状況にあった。 #どうする家康 #徳川家康
高麗屋の御曹司・8世市川染五郎くん(17歳)、大河初登場。高麗屋は親子4代で大河ドラマに出演するという、梨園でも希有な家系である。 #鎌倉殿の13人 #黄金の日日 #八重の桜