家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘・貞姫を家臣に養育させ、成長後に婿(足利尊氏の四男・基氏の子孫の宮原義久)を世話してやった。 また勝頼戦死の地に菩提寺・景徳院を建立し勝頼主従の墓も作らせている。 #どうする家康 #太平記
森乱(1565~1582)は「森蘭丸」の通称で知られるが、「蘭丸」の名は後世の軍記物に登場する表記であり、同時代の資料では「乱」あるいは「乱法師」という表記が用いられている。信長の寵愛は深く、小姓の身分のままで美濃岩村城主にもなっている。 #どうする家康
1582年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 39歳 織田信長 48歳 於愛の方 30歳 酒井忠次 55歳 石川数正 48歳 鳥居元忠 43歳 本多忠勝 34歳 榊原康政 34歳 井伊直政 21歳 服部半蔵 40歳 穴山梅雪 41歳 武田勝頼 36歳 明智光秀 54歳 茶屋四郎次郎 37歳 #どうする家康
高天神城陥落は武田勝頼にとって長篠の敗戦以上の大ダメージとなった。城の守備兵の大半が武田家に従属していた各地の国衆たちであり、これを見殺しにした事で勝頼の求心力は一気に低下した。以降家臣や国衆らの離反が相次ぎ、武田家は崩壊への坂道を転げ落ちていく事になる。 #どうする家康
信長の怒りを買った佐久間信盛は筆頭家老を解任の上領地を没収、高野山に追放され国衆としての佐久間家は一旦滅亡した。後に家康が信盛の息子達を召し出して家臣とし、佐久間家は徳川幕府の旗本として復活、始祖・和田義盛以来の名門の家名を明治維新まで保った。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
五徳(1559~1636)は織田家に戻ったが安土城には行かず、近江の寺に入りそこで出家したらしく見星院と号した。信長の死後は権力者達の思惑に翻弄される日々を過ごしたが、最終的にはかつての舅・家康の庇護を受け京都で暮らした。満20歳で未亡人となった五徳だったが再婚はしなかった。 #どうする家康
服部半蔵は、徳川家の関東移転後に西念寺 (現・東京都新宿区若葉2丁目)という寺を建て、境内に信康の遺髪を納めた供養塔を建立した。半蔵は晩年出家して西念寺にて信康の菩提を弔いながら余生を過ごした。半蔵の墓も寺院内にある。 #どうする家康
『三河物語』によると平岩親吉は信康の身代わりとして切腹を申し出たが、家康は許さなかったという。しかし責任を感じた親吉は傅役の職を辞し、謹慎したという。 #どうする家康
これまでの通説では信長は家康に瀬名と信康の処断を要求したとされてきたが、事件当時の資料である太田牛一の『安土日記』によると信長は「家康の思い通りにせよ」と返答したという。あくまでも徳川家の内部事情によるもの、という体裁を取ったものである。 #どうする家康
本多忠勝は宿敵であった武田軍に敬意を払っていたといい、長篠の戦いの後「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と物憂げな様子で語ったという。 #どうする家康
北条家に逃れていた今川氏真夫妻は、北条氏政の方針転換(武田との和睦)により相模を離れ、家康の庇護下に入ったという。氏真は徳川軍の客将として武田軍と戦い、また外交官として家康と氏政のパイプ役を務めるなど駿河・遠江において活発な活動ぶりを見せていた。 #どうする家康
1576年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 33歳 瀬名   36歳 織田信長 42歳 於大の方 48歳 於愛の方 24歳 酒井忠次 49歳 石川数正 42歳 鳥居元忠 37歳 本多忠勝 28歳 榊原康政 28歳 松平信康 17歳 井伊万千代 15歳 穴山信君 35歳 今川氏真 38歳 武田勝頼 30歳 #どうする家康
滅敬(生没年不詳)は戦国期の医師。名は減敬とも西慶とも表記され、また出自は甲州浪人とも唐人ともいわれるなどその素性はほとんど不明の怪人物であった。正体不明の怪人物の名を史実の大物の偽名として利用するという解釈と描写は、あの源仲章と同パターンである。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
長篠の戦いでは武田家臣団は多くの戦死者を出したが、特に真田一族は信綱・昌輝兄弟を始め一族の主だった者が戦死し家名存続の危機に立たされた為、信綱・昌輝の弟の武藤喜兵衛が急遽家督を継承、「真田昌幸」と名乗った。以降昌幸は勝頼の側近として台頭していく事となる。 #どうする家康 #真田丸
長篠の合戦で戦死した山県昌景の首級は山県家家臣の志村貞盈が敵に奪われないように持ち帰ったという。貞盈を始めとする志村一族は後に徳川家に臣従、武州多摩に移住し八王子千人同心の中心的存在となっていった。コメディアンの志村けん氏(1950~2020)はその子孫とされる。 #どうする家康
奥平信昌は強右衛門の命懸けの忠義を称え、彼の息子に父の名を継がせ「鳥居強右衛門信商」と名乗らせた。徳川幕府が成立し信昌の子・松平忠明が大名となると信商は家老となり、その子孫は奥平松平家(忍藩)家老として幕末まで主家を支えた。子孫は現在も健在である。 #どうする家康
月代(さかやき)という髪型は昔から存在し、以前は戦の時だけ兜の中の蒸れ防止の為剃っていた。戦が100年以上続いた戦国期、具体的には信玄・謙信・信長らが活躍した頃に男子の日常的な髪型として定着していった。剃刀が一般に普及したのもこの頃で、月代の習俗化の推進に一役買った。 #どうする家康
奥平信昌(1555~1615)は奥三河・作手の国衆。当初は武田方だったが調略により徳川方に寝返った。その際信長から家康の娘・亀姫との結婚を求められ、武田家の人質だった妻・おふうを苦渋の決断の末に見捨て、おふうは処刑された。信昌はもう後戻りできない状況にあった。 #どうする家康 #徳川家康
望月千代の夫である望月盛時は永禄4年(1561)の第4次川中島合戦にて上杉政虎(謙信)軍と戦い戦死した。盛時・千代夫妻には男子が無かったようで、武田信玄の弟・典厩信繁の三男が養子に入り望月信永と名乗った。未亡人となった千代は信玄の命で諜報活動に従事したという。 #どうする家康 #風林火山
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え 徳川家康は滅亡した武田家の血筋が絶える事を惜しみ、生き残った武田勝頼の娘に婿を世話してやった。 #どうする家康
井伊家は約500年間に亘って井伊谷を領有し、源平争乱期には源義朝に仕えたとされ、また南北朝時代には後醍醐天皇に仕えて遠江介の官位を得たという名家で、由緒の正しさではむしろ徳川家よりも上であった。 #どうする家康 #平清盛 #太平記
山田八蔵は大岡らの陰謀を密告した功により500石の加増を得たという。彼の屋敷のあった三河国柿碕村(現・愛知県安城市柿碕町南屋敷)の屋敷跡には彼の墓とされる塚が残されている。 #どうする家康
大岡弥四郎(?~1574)は史書には「大賀弥四郎」として記録されている人物。系譜は不明だが徳川家に従属する東三河の国衆・大岡家の一族だったと考えられている。大岡家は江戸時代には大名や旗本として繁栄、子孫からは有名な江戸町奉行の大岡越前守忠相を輩出している。 #どうする家康 #大岡越前
山田八蔵(?~1588)は松平信康の家臣、諱は重英。徳川家重臣・鳥居家の家臣(信康にとっては陪臣)で、尾張源氏の一流である山田氏の末裔とされる。三河一向一揆の際は一揆方に付いたが許され、再び松平(徳川)家に仕える事を許された。 #どうする家康
1575年 主要人物年齢一覧(満年齢) 徳川家康 32歳 瀬名   35歳 織田信長 41歳 酒井忠次 48歳 石川数正 41歳 本多忠勝 27歳 榊原康政 27歳 鳥居元忠 36歳 井伊虎松 14歳 松平信康 16歳 平岩親吉 33歳 明智光秀 47歳 穴山信君 34歳 山県昌景 51歳 武田勝頼 29歳 #どうする家康