渋沢篤二が入校した熊本第五高等中学校の校長に就任したのが、渋沢栄一と旧知の嘉納治五郎であった。治五郎は教育者としても評価を得ており、栄一もその手腕に期待したとみられる。ちなみに篤二と治五郎が熊本に居た1891年、同じ熊本県の玉名市で金栗四三が誕生している。#青天を衝け #いだてん
義高の影武者を務めた海野幸氏の命懸けの忠義はその後称賛され、彼は鎌倉幕府の御家人となり海野氏が信濃の有力国衆として発展する基礎を築いた。その後の真田家など子孫の活躍の基礎ともなっている。 #鎌倉殿の13人 #真田丸
1204年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 41歳 北条政子 47歳 北条時政 66歳 八田知家 62歳 北条泰時 21歳 北条時房 29歳 和田義盛 57歳 三善康信 64歳 畠山重忠 40歳 大江広元 56歳 後鳥羽上皇 24歳 九条兼実 55歳 慈円   49歳 源 実朝 12歳 藤原兼子 49歳 #鎌倉殿の13人
1213年 主要人物年齢一覧(満年齢) 北条義時 50歳 北条政子 56歳 八田知家 71歳 北条泰時 30歳 北条時房 40歳 和田義盛 66歳 三善康信 73歳 大江広元 65歳 後鳥羽上皇 33歳 慈円   58歳 源 実朝 21歳 千世   20歳 初    26歳 藤原兼子 58歳 北条朝時 20歳 #鎌倉殿の13人
滅敬(生没年不詳)は戦国期の医師。名は減敬とも西慶とも表記され、また出自は甲州浪人とも唐人ともいわれるなどその素性はほとんど不明の怪人物であった。正体不明の怪人物の名を史実の大物の偽名として利用するという解釈と描写は、あの源仲章と同パターンである。 #どうする家康 #鎌倉殿の13人
大内くにの産んだ娘ふみ(1871~没年未詳)は後に尾高惇忠の次男・尾高次郎と結婚した。ふみの孫にあたるのが本作のオープニングテーマの指揮を担当している指揮者の尾高忠明氏(1947~ )である。#青天を衝け
井伊家は約500年間に亘って井伊谷を領有し、源平争乱期には源義朝に仕えたとされ、また南北朝時代には後醍醐天皇に仕えて遠江介の官位を得たという名家で、由緒の正しさではむしろ徳川家よりも上であった。 #どうする家康 #平清盛 #太平記
織田信勝は永禄元年(1558)11月2日、兄・信長によって誅殺された。信勝には「御坊」という遺児がおり、信長の命で柴田勝家に引き取られ養育された。のちに津田信澄と改名し、明智光秀の娘婿となる人物である。#麒麟がくる
上総広常の死によって上総氏は事実上滅亡したが、娘が平時忠の息子・時家に嫁ぎ、さらにその娘が大江広元の嫡男・親広に嫁いだ事から、広常の血筋は大江家を通じて後世にまで残ることとなった。#鎌倉殿の13人 #平清盛
長篠の戦いでは武田家臣団は多くの戦死者を出したが、特に真田一族は信綱・昌輝兄弟を始め一族の主だった者が戦死し家名存続の危機に立たされた為、信綱・昌輝の弟の武藤喜兵衛が急遽家督を継承、「真田昌幸」と名乗った。以降昌幸は勝頼の側近として台頭していく事となる。 #どうする家康 #真田丸
元康(家康)は生涯にわたって今川義元を尊敬し続けた。後に大大名になってからも上洛のたびごとに桶狭間を通過する際は義元の墓の前で輿を降り礼儀を尽くしたという。 #どうする家康
水野信元は家康に無断で前線を離れただけでなく、一気に岡崎まで逃げ戻ったという。武田家への内通すら疑われるこの行動は織田信長の不審を招いたとされ、後の彼の運命に大きな影響を与える事となる。 #どうする家康
佐々木秀義(1112~1184)は近江源氏・佐々木氏5代目当主。源為義の娘婿で、頼朝の義理の叔父にあたる。佐々木一族の繁栄の基礎を築いた実質的な始祖であり、佐々木道誉・尼子経久・今井宗久はみな秀義の子孫である。#鎌倉殿の13人 #太平記 #毛利元就 #黄金の日日
阿野全成・実衣夫妻には娘が二人おり、そのうちの一人は後に公家の藤原公佐(藤原成親の息子)を婿養子に迎えて結婚、阿野家の名跡を継がせた。以降阿野家は公家として発展、南北朝期に後醍醐帝の寵妃として活躍した阿野廉子は全成・実衣の子孫にあたる。 #鎌倉殿の13人 #平清盛 #太平記
源範頼の嫡男範円は外祖母・比企尼の助命嘆願によって助けられ、その子孫は石見の国衆吉見氏、丹波の国衆波多野氏として戦国期まで続いた。織田信長によって処刑され首を塩漬けにされた波多野秀治も範頼の末裔とされる。#鎌倉殿の13人 #麒麟がくる
『甲陽軍鑑』の記述や武田家侍医の残した書状によると、武田信玄は「膈(かく)」という持病を患っていたという。これは現代医学でいう胃癌・食道癌など消化器系統の癌にあたるとされる。#どうする家康
今日は #きらりんレボリューション 放送開始15周年の日。「月島きらりちゃん」とそれを演じる小春に憧れて多くの少女達がハロプロに集まり、「きらレボ世代」はハロメン・ハロヲタの両方で中核的存在となった。『きらレボ』は間違いなくハロプロの歴史を変えた作品である。#久住小春 #きらレボ
今作の出演者で最も評価を高めたのは徳川慶喜役の #草彅剛 氏ではなかったか。輝きに満ちた颯爽たる貴公子、自ら光を消したうらぶれた蟄居者、全ての苦悩を経て達観の域に到達した老紳士など、様々な慶喜をごく自然に無理なく演じ分けていた。彼がこれほどの演技力の持ち主だったとは。 #青天を衝け
元康一行が木下藤吉郎と出会っていた。ちょうどその頃、遠州井伊谷では藤吉郎と瓜二つの風貌の男が井伊家に家臣兼商人として仕えていました。 #どうする家康 #おんな城主直虎
大岡弥四郎(?~1574)は史書には「大賀弥四郎」として記録されている人物。系譜は不明だが徳川家に従属する東三河の国衆・大岡家の一族だったと考えられている。大岡家は江戸時代には大名や旗本として繁栄、子孫からは有名な江戸町奉行の大岡越前守忠相を輩出している。 #どうする家康 #大岡越前
実朝の正室・千世(坊門姫、1193~1274)は夫の横死の翌日ただちに出家して本覚尼と名乗り、京に戻って自邸を改造して夫の菩提寺である遍照心院大通寺を建立した。彼女は60年以上の長い余生を実朝の菩提を弔うために費やした。#鎌倉殿の13人
望月千代の夫である望月盛時は永禄4年(1561)の第4次川中島合戦にて上杉政虎(謙信)軍と戦い戦死した。盛時・千代夫妻には男子が無かったようで、武田信玄の弟・典厩信繁の三男が養子に入り望月信永と名乗った。未亡人となった千代は信玄の命で諜報活動に従事したという。 #どうする家康 #風林火山
大姫は建久8年7月14日(1197年8月28日)、数え年20歳(満19歳)の若さで死去した。鎌倉市大船の常楽寺には大姫の墓とされる「粟船稲荷姫宮の墓」があり、その墓は”思い人”木曽義高の墓とされる「木曽塚」のすぐ近くにある。おそらく彼女の遺志に基づくものであろう。 #鎌倉殿の13人
倶利伽羅峠の戦いでの平家軍の総大将は、あの平維盛であった。またしても大敗した事で完全に面目を失った維盛は翌1184年に逐電、そのまま消息を絶った。那智沖で入水自殺したとも、沖縄まで落ち延びたとも言われ、その最後は現在まで不明のままである。#鎌倉殿の13人