葛西伸哉 ラノベ作家(@kasai_sinya)さんの人気ツイート(リツイート順)

これはもう何度も言ってるけど、(非現実要素がある)漫画アニメの実写邦画でたいがい厳しいのは「衣装のコスプレ感」。 これ、デザインとか縫製とかじゃなく「着ててヨレた感」がないからコスプレっぽいのだ。
根本的な問題は「AIに仕事を奪われる」事ではない。 「人間の労働力を必要としない方向に進んでいるのに、個々人は仕事しないと食えない社会」のままである事ではないか?
「中世に戻れば治安がよくなる」みたいな発想は「強い群れに加わらないと生存権さえ危うい」という事で「個人、少数派を抑圧する、支配する」という発想なんだよな。 そして何故かほとんどの人が「自分は充分強い群れの、尊重されるべき価値ある構成員になれる」前提で考える。
「何故日本はサメ映画(およびゾンビ映画)の一大消費地でありながら、サメ邦画は少ないのか」の話。「日本には低予算B~Z級映画のマーケットが貧弱」というのが原因であり、いわゆる「邦画つまらない問題」とも繋がってるんじゃないかしら?
思えば、日本が「アニメもグローバル化しなきゃ」とかほざいて、その「グローバル」が実質アメリカでしかなくて空振りしてる時に、当のアメリカのディズニーは中国市場に色目使ってボタン掛け違えて大問題起こしてる訳か。
むしろ現状最も横行してるのではないか。 「私が傷ついた。不快に思った。その事について私の側には一切責任や原因がない。感情は神聖にして無謬であり、補償不可能である。お前は謝罪し、全面的に私に屈しなければならない」というエモハラ。
コミケやSF大会の「感染拡大を見据えた対応の早さ」を目にすると都や国や五輪関係の「どうにかしてギリギリまで芽を残したい」という未練がましさ、決断の遅さという「現場感の不足」が気になってしまう。
作品の評価を世間の人気や売り上げでしか語れないというのは要するにコレなんだけど、作中で「愚か者の暴言」として描かれているのを「反論不能の正論」扱いする人もいるんだよなぁ。
まあ『北斗の拳』の頃には、作中でどんなにゲスな事ばっかりやっていても、見た目がよくて強いと人気が出てしまい、死に際に善人ムーブをかまして死後は「偉大なる強敵(とも)」扱いで許されてたのを思えば『鬼滅』や『忍極』の倫理観は高いと言える。
ふと。 新撰組って史実で言えば「旧体制を守り、革新勢力を摘発・弾圧するための武装組織」なのに現代では「新しい事をやろうとする側」が名乗ったり準えたりするのな。
やはり今のうちに、各地方の人が「私が体験した80年代オタク事情」を何らかのかたちでは残さないとなぁ。 東京史観だけに塗りつぶされてはアカンのだ。
以前知人が指摘してたのだが、あの頃世に溢れた「綾波的なもの」のほとんどは実は「ルリルリ的なもの」であった。 twitter.com/hatz0_0show/st…
手塚治虫にせよウルトラにせよセラムンにせよ、現在「名作、偉人」扱いされてるものについて「当時から高尚で素晴らしいもの」扱いされてたという歴史修正は、好意であっても党派性であっても許されんわな。
鬱エンドの大傑作『ミスト』は「限られた情報の中で主人公が理性と良心の限りを尽くして〈主体的に下した決断〉が全て無意味だった」から効くんだよなぁ。 ただ外部の力で為す術もなく不幸になるようなのは概ねつまらない。
なんでこういう時に「生身の女性」を起用しているドラマ、広告、バラエティ番組じゃなくて漫画やアニメを真っ先に挙げるんだろうな。 twitter.com/packraty/statu…
もう偏見で言っちゃうけどさ。 SFでもロボットアニメでも特撮でもその他でも「偏狭さを純粋さと勘違いしてる人」ほど「我こそはジャンルの正しさの守護者なり」と思って「個人」としてではなく「ジャンルの看板」掲げて排他的な事を言いがちなんだよな。
#出版物の総額表示義務化に反対します 恐ろしい点のひとつは「税率を下げます」という多くの人が喜ぶ決定によって大量の絶版本、版元の倒産を誘発できるんだよな。当然それは印刷製本など様々な周辺にも及ぶ。 日本の出版文化と産業を滅ぼす気なのか?
ラノベの講師してた時「江戸時代の日本人が、初めて目にするハンバーガーを食べる場面」という課題を出してたんだけど、その時に言ってたのが「トマト、レタス、肉食などについて《史実》と《大多数の読者がイメージする江戸時代》には大きな違いがある。そこで、どちらに則るかは自由」。
敢えて悪趣味な言い方をすると「我が子に、親に見せられるか」式の批判というのは「家族は絶対的に尊く、構成員個々人の価値観よりも道徳的一体感が優先。そういう家族を形成するのが真人間」という《偏見》であり、カルトがハッキングするセキュリティホール丸出し。
ナチスを「狂気」と表現するとき、重要なのは「あいつらは狂ったから特別だ」ではなく「我々もまた、たやすく狂いうるものなのだ」という認識ではなかろうか。 twitter.com/tanosensei/sta…
ビートルズにせよ何にせよ「たくさんの人の心を動かしたから価値がある」論は、結果論から逆算した権威主義の浅ましさだけでなく「じゃあ少数の人間しか救わない、感動しないもの」は踏みにじっていいのかという危険性に無自覚ではないか。
『月曜日のたわわ』の件と恵比寿駅のロシア語の件。 完全に同一ではないにせよ根っ子では繋がってる問題だし、潮目が変わった感はある。
「なんで怒ってるのか、わかる?」ってのは「怒りという感情」を用いた典型的なエモハラだよな。 多くの場合、それが職場や家庭内の関係性にも起因するからパワハラ「でも」あるだけで。
「差別に一切根拠がない事で、差別のおぞましさ、馬鹿馬鹿しさ、愚かさを描く」という点では『翔んで埼玉』という傑作があるからなぁ……。
「いじめはいじめられる側にも理由がある」というタイプの言説は「理由」という言葉を「動機」「論拠」「正当性」「必然性」などの概念を区別せずに雑に扱ってるんじゃないか。 「加害側がそうしたくなる動機」は「それを実行しても構わない正当性」じゃない。