旧統一協会と政治も電通がらみのオリンピック利権も後になって出てきて「やっぱりなあ」との声の後に「今更とやかくいってもなあ」と言う世論が作られる。しかし「今更とやかくいう」ことでしか「歴史」は描けないし、政治や政治的イベントの評価はできないんだけどね。
出版の世界で取次が消えると説明は省くが単に中間業者が消えるのではなく「金融」の役割を果たしていたので出版社の資金繰りにも関わってくる問題。中小の出版にとどめを刺したり業界の大手中心や大手同士の合併など再編が一挙に進むかもしれない。 news.yahoo.co.jp/articles/a872b…
立憲を僕が支持しにくいのは「桜や森友・加計ばかりやっているから」でなく、共産党のように独自の調査で証拠で追い詰めるのでなく、文春や新聞報道を受けての浅い追求しかせず、その代表格みたいな人を国会質問に立たせるというルーティン化した怠惰さに対して。 sankei.com/politics/news/…
「財界」や大企業のに益するように使え、と言いたいようだが、ポイントでは一番追い込まれた人たちが今月の家賃や保育料や医療費を払えず廃業寸前の小店舗でも使えない。こういう「財界人」の人としての下劣さにもっと怒っていい。 headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200416-…
Twitter見てると安倍が批判されたり、間違っていることを認めたらその人の自我が崩壊しかねない程、安倍に自分を仮託している人がいて、それがこの人の最後のしかし最も強固な支持基盤なんだろうな。枝野とかにはよくも悪くも自我を仮託する人はいない。
「挙手していない記者(スマホ中)が指名され、さらに、その記者が質問を始める前に菅首相が答弁原稿を探し始めるという“珍事”がみられた」 もはやヤラセさえできないのか首相も官邸マスコミも。 nikkan-gendai.com/articles/view/… #日刊ゲンダイDIGITAL
かつてワイドショーネタの定番だった統一教会の今回の「報道のされなさ」は、その周辺で指摘されてきた政治との関わりを含めた問題が元首相との関係の検証以前に丸ごとが、正々堂々と不問にされていくとても気持ちの悪い光景を見せつけられている。
関西に出張しているとウンザリするのが「維新・吉本的言語空間」。週末朝から吉村、読売テレビに出ずっぱり、さりげなく小池百合子をディスりつつ(まあ、それはいいけど)維新やってる感を頼もしく演出。そりゃ選挙、圧勝する。この「維新・吉本的言語空間」、誰か正面から批評の対象にするといい。
花森安治の婦人雑誌。翼賛思想の鼓舞は一切なくゲートルも防空服も全て手仕事で「作り」「着る」ことでイデオロギーを言葉でなく日常化身体化する。こんなこと出来た花森や報道技術研究会や東方社など戦時下プロパガンダの先端にいた人にとって戦後の大衆なんて本当にちょろいもんだったろうなあ。
ロシアの侵略にかつての自国のアジアへの侵略を重ね合わせることも思いつかず、ウクライナや中立の理念を捨てる選択をする北欧に自分たちを都合よく重ね、戦後社会や憲法の理念を放擲しようとする理由付けとし最後まで自国の歴史に向かい合おうとしないで戦時下戦後が清算されていく姿に愕然とする。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
渡辺電気(株)さんがnoteで公開している回想記の中で石森章太郎先生が一晩で100pぐらいペン入れすると書いているが僕は石森担当だった編集者時代、目の前で他社の原稿だった「マンガ日本の歴史」一冊が一晩でペンが入るのを呆然と見ていた記憶がある。note.com/w_denki/m/m2db…
著者的に近所の古本屋に自分の本があるのは実は嬉しいがブックオフに大量にあるとなんだかなと思う。同じ「古本屋さん」と思うかもしれないがブックオフの株主は大日本印刷、丸善、講談社、小学館、集英社といった面々で、新刊の売り上げを確実に減らし著者を疲弊させる事業で配当得ているからです。
なるほど独裁政権は必ずしも恐怖政治でなく、共に弱者を足蹴にする悦楽や冷笑で担保され、支持されるんだなあ、と。
翼賛体制下、いかにまんが家自身が自らを動員し、かつ、読者を動員することに加担もしたか。この本や「大東亜共栄圏のクールジャパン」で描きたいのは戦争の被害者としての漫画家でなく、協力者、もっと厳しく言えば「加害者」としての漫画家です。 人事ではないんだよ。 book.asahi.com/jinbun/article…
自民勝利、立憲惨敗をもっともらしく野党共闘の失敗として論じているが要は時代錯誤の「反共」キャンペーンを与党が仕掛け報道・維新・国民が乗っかり有権者が生理的に動いたというレベルの問題で、政策や体制選択などという大仰な立論や論争があったと言い繕うのは殆ど歴史の捏造ではないか。
休業要請で消費の対象を「生活必需品」とそうでないものに分け後者を規制の対象とするが「贅沢品」「生活必需品」の区分そのものが総動員体制に向けた経済統制の思考法なのに。つまり、今やっているのは「経済統制」 だということ。 「贅沢は敵だ」の標語はこの時のものだと忘れずに。
ワクチン接種が政府の予想を追い越したように行政でも末端は機能し、医療も現場がかろうじて支え、しかし、丸投げの果ての現場ではそういう支えも不可能になってきている。SDGs以前に社会が人的組織の部分で持続不可能になっている。
コロナ対策で露わになったのは首相から知事まで彼らの考える政治が「下々に言うことを聞かせる」でしかないこと。この惨状も自らの「失政」でなく「オマエらがいうことを聞かなかった結果」であり自らに責任があるとは微塵も思っていない。だから「もっと言うこと聞け」以外の対策は出てこない。
僕はもうそんなに長く人生も残っていないが、僕より若い人や僕よりも長く生きる予定の人たちに「本当にこれでいいんだね」と確かめたい。あとで、騙された、そういう空気だった、そして、昨今の「よく知らなかった」で済まそうというのは少し無責任すぎる気がするよ。
これ僕が美大にいたときかなり強く感じた、アートなりデザインが公共空間や場を設計するときの甘えや傲慢さ、そこまでいかなくとも無責任さに通底する問題。表現を社会に発信したとき「身体」のレベルで人の行動に介入することへの倫理性が教員を含め脆弱なのでは。 news.yahoo.co.jp/pickup/6398573
ろくすっぽ使えってもいない憲法をどう使うかの実践の蓄積もない状態で、長期的な社会の設計の基礎となる憲法をコロナのいっ時の混乱に乗じで改憲に舵を切ることがどれほど未来に対して不誠実か、と考える人はいないのか。
しかし、戦争になったらどうする、という恫喝は政権にとってなんでもやりたい放題のカードだな。しかも、ならないように外交を積み重ねるという本来の政治の地道な使命をサボタージュもさせてくれる。
僕が保守論壇にいた時、何を書いても結びは戦後民主主義、憲法九条が行けないで締めればいい、と言われた。僕はそれで保守論壇で戦後民主主義を肯定的に語る選択をしたが、この「なんでもいいから戦後民主主義批判」が今のこの国の暗黙のうちの言語空間の基調に確実になっていることは申し添えたい。
立憲にかろうじて期待を寄せて来た有権者らの嘆きを「息苦しい」とスルーして、ひろゆきレベルの論破をしようとまでする態度は、1票の託し様がない政党だと自ら言っているようなものではないか。 twitter.com/izmkenta/statu…