3Dプリンタを発明したのは小玉秀男氏 名古屋市工業研究所勤務の1980年だった 3D CADと印刷技術から3Dプリンタを発案して試作機を作り「立体図形作成装置」として出願した 試作造形したログハウスを見たプロ達の評価は「おもちゃで使えない」だった 特許成立を中断して退社した マイコンと同じパターン twitter.com/Kappaboss1/sta…
@Kappaboss1 @sunasaji @madnoda 3Dプリンタを発明したのは小玉秀男氏 名古屋市工業研究所勤務の1980年だった 3D CADと印刷技術から3Dプリンタを発案して試作機を作り「立体図形作成装置」として出願した 試作造形したログハウスを見たプロ達の評価は「おもちゃで使えない」だった 特許成立を中断して退社した マイコンと同じパターン
@Kappaboss1 @sunasaji @madnoda 3Dプリンタを発明した小玉氏への評価は「何を遊んでいるんだ」だった 小玉氏は追い込まれて3Dプリンタの成果物を全て廃棄して退社した 研究者としての活動を断念した小玉氏は特許を扱う弁理士になった 小玉氏に持ち込まれたのは米国3Dシステムズ社の3Dプリンタ特許の評価だった 運命のいたずらだった
3Dプリンタを発明した小玉氏への評価は「何を遊んでいるんだ」だった 小玉氏は追い込まれて3Dプリンタの成果物を全て廃棄して退社した 研究者としての活動を断念した小玉氏は特許を扱う弁理士になった 小玉氏に持ち込まれたのは米国3Dシステムズ社の3Dプリンタ特許の評価だった 運命のいたずらだった
3Dプリンタを発明した小玉氏への評価は「何を遊んでいるんだ」だった 小玉氏は追い込まれて3Dプリンタの成果物を全て廃棄して退社した 研究者としての活動を断念した小玉氏は特許を扱う弁理士になった 小玉氏に持ち込まれたのは米国3Dシステムズ社の3Dプリンタ特許の評価だった 運命のいたずらだった twitter.com/Dream_Library_…
初期の月刊アスキーでは、アニメ・SF好きの編集長(現・館長)が、産業会館で開催されていた、初期のコミックマーケットに出向いて、メカイラストや、萌えイラストが得意なイラストレーターをスカウトしていました 彼らが、毎号、色々なイラストを誌面用に描いてくれました 読者にはとても好評でした twitter.com/snapwith/statu…
月刊アスキーの誌面に載せるイラストレーターを探すため、アニメ・SF好きの編集長(現・館長)が、1978年に産業会館で開催されたコミックマーケットに出向いて購入した同人誌 青焼きや簡易コピーの同人誌が有った時代 宇宙戦艦ヤマトが劇場版で復活して サンダーバード、謎の円盤UFOがまだ熱かった時代
1978年のコミケ会場で売られている同人誌は、青焼きや簡易コピーで、内容も手書きで作られた作品が大部分でした 一部には、制作グループ内に出版のプロが居るような、商業誌レベルの同人誌も有りました この「謎の円盤UFO」のファンクラブ誌は商業誌レベルの出来栄えです
1978年のコミケ会場で売られていた「謎の円盤UFO」のファンクラブ誌 最初に見たときは、漢字タイプライターで素人が活字文章を作ったのかと思いましたが、商業誌と同じに「写植」で版下を作り、レイアウトして図版も入れて、オフセット印刷しています 他の参加者とレベルが違いすぎます この本も謎です
1989年にワープロ専用機メーカーはバラ色の未来を描いていたが… この記事から6年後の1995年にはWindows95の登場で、日本語ワープロ専用機のライバルだったPC-98の立場も弱くなった 10年後の2000年にはPC-98と日本語ワープロ専用機の両方が消え去ってしまった 急速に進化するIT分野の未来予測は難しい
再び見ることが出来ないと思っていた1969年放送の「NHK コンピューター講座」がYoutubeに公開された 日本のコンピュータ元年となった1969年に放送されたコンピュータを学ぶ番組 NHK教育TVのテキストがベストセラーになったほど注目された 講師は偉大な先駆者 森口繁一 先生 youtu.be/vGadEzJXc0w
年末・年始に、実家の物置部屋を整理される方へお願いです あなたの「人生の宝物」の「安住の地」として 夢の図書館、マイコン博物館、模型とラジオの博物館への寄贈をご検討願います 多くの方に役立ち、技術遺産として残せます 寄贈いただける場合には、輸送用の箱、送料着払い伝票等をお送りします
米国企業が日本へ進出する時にアメリカでの商習慣をそのまま持ち込む場合が有りました 米国でのタンディ店はハイウェイを車で飛ばして買いに行く店です 日本でも車を飛ばして買いに来ると考えて調査を行い、中央高速のインターチェンジが有る調布市の畑の中に米国風に開店しました 客は来ませんでした twitter.com/KawamataAkira/…
1988年公開 劇場版『AKIRA』のCG部分を館長が制作しました 当時の日本でCGを制作できる会社は2~3社でした 写真は、AKIRAのパワーゲージ ホログラム表示をイメージしています 約6000X4000ピクセル 4X5ポラロイドによるテスト撮影 映画では光学合成時に劣化していますが、これがオリジナルの形と色です
1988年、劇場用CG映像をどのように制作したのか説明します 大スクリーンで上映する映画フィルムが最終形態になるのでCG出力もフィルム露光になります 写真の機材が「フィルムレコーダー」でオシロスコープに使われるようなブラウン管の超高精細型が内蔵され、ゆっくりとラスタースキャンします (続く)
劇場版アニメ『AKIRA』のCGシーンをどのように制作したか説明します その前、1983年に制作したMSX LDゲーム「STAR FIGHTERS」はSDビデオなので640X480画素でした 写真の1台1億円で1MIPSのVAX11/780 2台を1年間ブン回してCGレンダリングして制作しました このCPUパワーでは劇場版CGは作れません (続く)
1986年に館長が日本で3番目のCG制作会社をスタートするに当たり、高品質CGを量産出来る秘策として SUN-3に接続するレンダリング用小型スパコン シリコングラフィックス社製のCGWS 4台 それまで秘密のベールに包まれていたピクサー社のCG専用スパコン「PIXAR」を導入した CG制作能力は桁違いに高まった
ピクサー社のCG専用スパコンPIXARを導入できたのは当時ピクサー社CEOだったスティーブ・ジョブズ氏の後押しが有ったと思う PIXARはNHK特集の「脅威の小宇宙 人体」のCG制作でもパワーを発揮した その後、RISC CPUを搭載した高性能なCGWSを導入したのでPIXARの運用を終了した フロントパネルのみ残した
ピクサー社のCG専用スパコンPIXARは、リース契約で導入したので運用終了後にリース会社へ返却した 残念ながら、リース契約上残す事が出来なかった 現存していれば、その後に、ディズニーのCG映画作品で大活躍するピクサー社の黎明期の技術資料として、海外のコンピュータ博物館と同じ様に展示出来た
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 CPUはMC68020、ジオメトリックエンジンを搭載しているのでワイヤーフレームや、ポリゴンCGをリアルタイムで動かす事が出来た 今では数万円のPCでも高度がCG表現が出来るが、1986年当時は、これでも驚くべきCG技術だった
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 劇場版アニメ『AKIRA』のCGシーンの制作に活用した 3Dデータの作成、アニメーションの動きの確認などに利用 当時は最新鋭機だったが、今見直すと、急ごしらえで作ったCGWSのように見える
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 MC68020を搭載したCPU基板 かなりの高密度実装 信号線は、バスラインより、信頼性が高いフラットケーブルを利用して基板間をつないでいる
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 CPU基板につながるプログラムメモリ基板 容量4Mbyte 1~2枚実装 当然、VAX11/780より10倍位パフォーマンスが良い
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 CPU基板につながる浮動小数点演算基板 MC68020専用のコプロセッサでは無く、スパコン用演算チップを開発しているWEITEC社の浮動小数点演算LSIを搭載している CG演算やレンダリングにはWEITEC社の演算LSIが適していたようだ
1986年に4台導入したシリコングラフィックス社のCGワークステーションIRIS3130 3DCG処理をハードウェアで行うジオメトリックエンジン基板 シリコングラフィックス社の独自技術の心臓部分 現在のGPUのご先祖様 ジオメトリックエンジン基板が無ければ、普通のワークステーションになってしまう