Shotaro TSUDA(@brighthelmer)さんの人気ツイート(古い順)

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ぼくが大学生の時に読んだ本のなかに『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』(新評論、1992年)という著作がある。これは名著だと思うのだが、残念ながら絶版。「人は大なり小なり、自分を他人とは違う特別な存在だと思いたい」。そうした存在証明をいかに手に入れようとするのか(続)
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文系の研究業界は権威主義的で目上の研究者に逆らうのは許されないみたいな話がタイムラインで出ていた。なかにはそういう状況もあるのかもしれないが、ぼくの指導教授は自分の著作を批判させるというお題を大学院生に出してきたり、刊行前の著作を院生に読ませて修正すべき箇所を
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尋ねたりしていた。いくつか指摘されると、刊行された著作ではちゃんとそれが反映されてもいた。研究者として見習うべき姿勢だといまでも思っている。
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どの順番で仕事をやってよいのかが分からなくなってきたので、とりあえずツイッターを見ているのだが、これが正解でないということだけはわかる。
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1970年代において女性解放運動の主張が真面目に受けとめられず、マスメディアによって「からかい」の対象とされたのはなぜかを述べた論考。本論を読んでいると、ネットでのやりとりが次々に浮かんでくる。メディア環境の激変によって内容の妥当性が揺るがないどころか、さらに強まった感もある。(2)
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遅ればせながら、江原由美子さんの「からかいの政治学」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫に所収)を読んだ。初出は1981年とのことだが、昨日か一昨日ぐらいに書かれたんじゃないかと思うぐらいに現代性がある。(1)
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たとえば、本論によると「からかい」の背景には、からかう側の独りよがりな「親密性」の現れがあるという。真面目な主張に対して本気で反論したり、敵意をむき出しにするのではなく、親しくもないのに相手を愛称で呼んだり、「こわいこわい」でやり過ごそうとするのは(3)
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「親密性」には相手を自分よりも格下に位置づける機能もあるからだとされる。「さほど親しくない他者、または、見知らぬ他者に対し、親しげな愛称や呼称で呼びかけること自体が、はっきりと侮辱の意図を伝えるのである」(p.249)(4)
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この指摘については、思い当たる事例が多すぎてちょっと困る。また、からかってくる相手に対して、どう対峙すべきかを論じた部分では、からかいを批判する側が多く傷を負う構造についても論じられていて、ここも非常に現代的な記述。(5)
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ただ、この論考を読んで思ったのは、ここで論じられている問題意識を有している人と、そうでない人とのコミュニケーションは、たとえ後者に悪意がなかったとしても難しいだろうということ。そこにうまい解決策が見いだせないのが悩ましいところではある。(おわり)
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ロシアによるウクライナ侵攻で「ロシア料理店」に嫌がらせをする人がいるというのをみると、誰かを攻撃する口実をつねに探していて、実際のところ理由はなんでもいいという層がいるんだろうという暗い気持ちになる。
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「不祥事を起こした政治家が不快な表情をする映像が流れていることに対しBPOは注意しないのか」という妙な質問が出る会合の後で「BPO委員の人選に国会が関われないか提起したい」という声が出てくる怖さ。news.ntv.co.jp/category/polit…
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『専門知は、もういらないのか』で面白いと思ったのは、米国のジャーナリズムが駄目になった要因の一つとして大学でのジャーナリズム教育が挙げられていた点(p.192)。ジャーナリズムが職人の仕事から学問になったことが問題だという。
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身近なトピックを取材して職人としての経験を積むのではなく、記事の構成などのテクニカルなことばかりを大学で学ぶ。結果、自分が報じることに対して知識のなかったり、ソーシャルメディア上でのプレゼンスを高めることしか頭にない若者がジャーナリズムに送り込まれているのが問題だという。
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大学でのジャーナリズム教育とメディアへの就職とが強く結びついている米国ならではの指摘という感はあるけど、あちらを立てればこちらが立たず、という感じだろうか。
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昼間、デヴィッド・ミラーの議論に即してロシアの政策について一般のロシア人を批判するべきではないという話をしたのだが、規範理論としてはそうでも、実際には戦争が長引くとそれがどんどん難しくなっていくと思う。(続)
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一向にナチスの支配体制が崩壊しないことから、ナチスと一般のドイツ人とを区別することが難しくなっていく。つまり、ナチスに戦争の原因があるのではなく、ドイツ人そのものに戦争の原因があるという考え方がだんだん強くなっていった。(続)
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いつものようにWW2時の英国の話をすると、戦争勃発当初、英国政府はナチスと一般のドイツ人を切り離して、前者にのみ戦争責任はあるという立場にたち、プロパガンダもその路線に従った。その背景には、ナチスのドイツ支配は脆弱で、経済封鎖とプロパガンダで揺さぶりをかければ、WW1のときの(続)
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ようにドイツは内部崩壊するという期待があった。また、英国に亡命していたドイツ人が、ドイツ国内にも「良きドイツ人」は多数いるので、彼らに呼びかけるべきだという主張を展開したこともあったとされる。しかし、(続)
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そうして、ドイツ人がいかに野蛮な存在なのかという著作がベストセラーになったりして、ドイツ人そのものが悪であり、ナチスの所業に対しては一般のドイツ人にも責任があるという論が展開されるようになった。(続)
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しかも、空襲にしても軍事施設だけをターゲットにするという建前はあったものの(実際には当時の技術では極めて難しかった)、英国本土での空襲被害が拡大するとそういう建前もどんどん形骸化していき、相手側の市民に死者が出ようが知ったことか、みたいな雰囲気になっていく。(続)
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まとめると、戦争時における憎悪のコントロールは至難の技で、長期化するほどに暴走しやすくなる。そうならないことを祈るよりほかない。(終)
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講義の準備をしていて思ったことなのだが、社会科学の概念や理論の多くは、アイデアだけみるとものすごくシンプルで、中学生でも理解できそうなものが多い。だから、パッと見、ごく当たり前のことを言っているだけのようにもみえる。でも、その見方には二つ、見落としがある。
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概念や理論の概要だけ聞いて「当たり前すぎてつまらない」と思ったとしても、そこで引き返してしまうと肝心の面白い部分を見逃してしまう可能性が高いということ。概念や理論というのはゴールではなく、実はスタートにすぎない。(おわり)
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一つは、多くの人がなんとなく感じていることと、それを明確に言語化することの間には結構な溝があるということ。いったん言語化されると、すぐにそれが当たり前の話に聞こえるようになる。でも、言語化は誰にでもできるわけではなく、かなりの時間と努力が必要だったりする。