Shotaro TSUDA(@brighthelmer)さんの人気ツイート(新しい順)

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ぼくが大学院生のころ、当時の流行テーマをやっていた年長の院生が、とある年輩の研究者を指して「あの人、時代からズレちゃったんだよな」と評していた。それから約20年、その「ズレちゃった」とされた研究者の昔の論文を読むと、その年長の院生が書いていたものよりも現代性があったりする。
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この話。特定政党から資金を一時的でも受け取っておいて「公共メディア」を名乗るというのは、やはり問題だだろう。フェイクニュースの氾濫に問題意識があったとのことだが、結果としてメディア不信をさらに強め、フェイクニュースへの対抗をより難しくしたと言えるのでは。buzzfeed.com/jp/yoshihiroka…
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重要なのは、社会に多元的な評価軸があるということで、自分などは外見や容姿しか評価軸がなければさぞしんどい状況になったことだろうと思う。傾向的には女性のほうが外見という一元的な評価軸に晒されやすいという傾向はおそらくあって、それでメリットを享受する女性もいるだろうけど、
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残念ながらそうではない女性もいるだろう。だから、美醜という基準を持ち込むべきではないところで、たとえ肯定的であっても容姿に言及する発話がさかんになされてたら、それはやっぱりマズいんじゃないですかね。
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そういえば、今年亡くなった母も、自分の外見に強いコンプレックスを抱いていて、認知症を発症してからも幼いころに実兄から容姿のことでなじられたと繰り返し言っていた。だから、ルッキズムという問題提起自体はやはり必要なのだと思う。
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高校生のとき、同じ部活だった奴から「お前はなんでそんなにブサイクなん?」と言われて、けっこう傷ついたことがあった。今なら「別にアイドルを目指しているわけでもないんだから余計なお世話だ」と言い返せそうだけど、思春期の高校生にはけっこうきつかった。
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ルッキズムというのは外見や容姿といった基準を「本来持ち込むべきではないところに持ち込む」ことであり、基準自体を全面的に否定するのは難しいように思う。それをもっとも持ち込むべきではないのが教育機関であり、たとえば教員は肯定的な意味でも学生の容姿に言及するのは避けるべき。
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チェンバレンの宥和政策が「弱腰」の外交姿勢を責めるさいの常套句として日本でもしばしば用いられるが、歴史家のアーネスト・メイによれば、その「教訓」がアメリカをベトナム戦争の泥沼へと突入させるうえで一役買ったという(『歴史の教訓』)。歴史の教訓は慎重に使わねば、という話。
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現代ではコミュニケーションの負荷が非常に高まっていて、その面倒さに耐えきれず一人を選択する人が増えているのであり、それを男性だけの問題へと還元してしまうのは単純化だという指摘も可能かもしれない。この最後のやつが個人的にはまだ説得的ではないかと思う。
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そこで男性のなかには、自分の思い通りにならない女性とのコミュニケーションが面倒くさくなってしまい、そういう負荷のないバーチャルな女性とのコミュニケーションにのみ耽溺する人がでてきたという。最初の引用部分が続くのは、その話の直後。だから、上野さんのこの論を否定するのであれば、
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男性は女性に幻想を押し付けてきたわけではないとの歴史の話をするか、リアルの面倒さを避けてバーチャルに行くオタクは存在しないと主張するか、それとも上野さんの議論の前提を受け入れたうえで、女性は男性をとにかく褒め称えるべきと主張するか、ぐらいではないか。あるいは、
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あの議論で上野さんが語っているのは、多くの男性が「何の努力もしなくても自分を認めてくれる女性」としかコミュニケーションできないという問題。ところが、そういう女性を演じてくれる女性が減ってきた。
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上野千鶴子さんの「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい」という発言は、オタクへの誹謗としてツイッターでよく槍玉に上がるのだが、あれは議論の前の部分を意図的にか省略した、非常によろしくない切り取りだと思う。
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死者はすでに亡くなっているがゆえに反論が許されない。「死者を冒涜するのか」「無駄死にだったというのか」という主張に対する反論はたいへんに難しい。だがその結果、死者が新たな死者を招き寄せる状況が生まれ、壊滅的結果に至るまで止まることができない。
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ドイッチュによれば、19世紀以降のヨーロッパでは、ナショナリズム言説において「死者」が登場し、使命の完徹を求める国民意思のシンボルとして活用されるようになったという。そこでは、方針の転換は死者に対する裏切りとして激しく糾弾される。
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録画したままだったNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争・開戦」をみたのだが、日中戦争の死者に引きずられてさらに多くの死者を出すことになる対米開戦に突入したというあたり、カール・ドイッチュのナショナリズム論を思い出さずにはいられない。
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今日の授業で、台湾について日本の一部の層のあいだに「台湾は歴史もひっくるめて日本の全てを肯定してくれる存在」という誤謬があるのではないかという話をした。それはたぶん、韓国や中国に対するネガティブなステレオタイプをそのまま裏返したものでしかない。
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「この裁判で争われているのは、『表現の自由』ではなく、1人のマイノリティが出自を理由に職場で差別されず、安心して働き社会の一員として生きるという『人間の尊厳』そのもの」 news.yahoo.co.jp/articles/1af18…
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日本に入国できていない留学生を対象としたオンライン授業で、スケープゴーティング現象について説明した。受講者にスケープゴートの事例を何か思いつくかを聞いたところ、「日本に入国できない留学生」という見事な返答が返ってきて、何も言えなかった。
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学術的には問題外の本がヒットする一方、真摯な学術書が売れないのをみると、大変に残念な気持ちになったりするが、これはもう時間による淘汰を期待するしかないんだろうと思う。かつてのベストセラーが誰にも読まれなくなることは珍しくないし、売れなかった本が少しずつでも読み継がれることもある。
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慎重に書かれたよい記事と思う。「被害者の側にも『表現の自由』があり、その表現活動は社会に重要な影響を与えうるものである。そこに沈黙強制となる攻撃や、言論空間に参加できなくなるような社会的信用の貶めがあった場合には、こちらの『表現の自由』を守る必要が生じる」news.yahoo.co.jp/byline/shidayo…
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この記事の途中に埋め込まれている動画が、あまりにひどくてちょっと見られない。news.yahoo.co.jp/byline/shivare…
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大学院生のころ、学部生の後輩から「私の友達は高校時代からニーチェとか読んでいて、学問には飽きたって理由で大学院には行かないんですよね」と言われたことがある。その言葉からは「本当に頭がよい人は大学院などには行かないのだ」という含意が感じられて、嫌な気分になったことは覚えている。
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主体的、積極的であるならば生意気に見えるし、おちょくってやりたい気持ちになる。他方、客体的、消極的であっても、それが悪しき帰結をもたらしたならば、その主体性の欠如を責める。そういうダブルバインド的構造になっている感もある。
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つまり、「アッコちゃん」が受け身であったことが問題なのであり、周囲のせいにするんじゃないという指摘。しかし、直観ではあるが、そういう批判をする人が、「アッコちゃん」が主体的に行動し、周囲の歪みを告発できる人物であった場合、それを歓迎するかと言えば、そうでもないんじゃないか。