Shotaro TSUDA(@brighthelmer)さんの人気ツイート(新しい順)

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いつものようにWW2時の英国の話をすると、戦争勃発当初、英国政府はナチスと一般のドイツ人を切り離して、前者にのみ戦争責任はあるという立場にたち、プロパガンダもその路線に従った。その背景には、ナチスのドイツ支配は脆弱で、経済封鎖とプロパガンダで揺さぶりをかければ、WW1のときの(続)
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昼間、デヴィッド・ミラーの議論に即してロシアの政策について一般のロシア人を批判するべきではないという話をしたのだが、規範理論としてはそうでも、実際には戦争が長引くとそれがどんどん難しくなっていくと思う。(続)
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大学でのジャーナリズム教育とメディアへの就職とが強く結びついている米国ならではの指摘という感はあるけど、あちらを立てればこちらが立たず、という感じだろうか。
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身近なトピックを取材して職人としての経験を積むのではなく、記事の構成などのテクニカルなことばかりを大学で学ぶ。結果、自分が報じることに対して知識のなかったり、ソーシャルメディア上でのプレゼンスを高めることしか頭にない若者がジャーナリズムに送り込まれているのが問題だという。
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『専門知は、もういらないのか』で面白いと思ったのは、米国のジャーナリズムが駄目になった要因の一つとして大学でのジャーナリズム教育が挙げられていた点(p.192)。ジャーナリズムが職人の仕事から学問になったことが問題だという。
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「不祥事を起こした政治家が不快な表情をする映像が流れていることに対しBPOは注意しないのか」という妙な質問が出る会合の後で「BPO委員の人選に国会が関われないか提起したい」という声が出てくる怖さ。news.ntv.co.jp/category/polit…
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ロシアによるウクライナ侵攻で「ロシア料理店」に嫌がらせをする人がいるというのをみると、誰かを攻撃する口実をつねに探していて、実際のところ理由はなんでもいいという層がいるんだろうという暗い気持ちになる。
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ただ、この論考を読んで思ったのは、ここで論じられている問題意識を有している人と、そうでない人とのコミュニケーションは、たとえ後者に悪意がなかったとしても難しいだろうということ。そこにうまい解決策が見いだせないのが悩ましいところではある。(おわり)
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この指摘については、思い当たる事例が多すぎてちょっと困る。また、からかってくる相手に対して、どう対峙すべきかを論じた部分では、からかいを批判する側が多く傷を負う構造についても論じられていて、ここも非常に現代的な記述。(5)
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「親密性」には相手を自分よりも格下に位置づける機能もあるからだとされる。「さほど親しくない他者、または、見知らぬ他者に対し、親しげな愛称や呼称で呼びかけること自体が、はっきりと侮辱の意図を伝えるのである」(p.249)(4)
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たとえば、本論によると「からかい」の背景には、からかう側の独りよがりな「親密性」の現れがあるという。真面目な主張に対して本気で反論したり、敵意をむき出しにするのではなく、親しくもないのに相手を愛称で呼んだり、「こわいこわい」でやり過ごそうとするのは(3)
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1970年代において女性解放運動の主張が真面目に受けとめられず、マスメディアによって「からかい」の対象とされたのはなぜかを述べた論考。本論を読んでいると、ネットでのやりとりが次々に浮かんでくる。メディア環境の激変によって内容の妥当性が揺るがないどころか、さらに強まった感もある。(2)
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遅ればせながら、江原由美子さんの「からかいの政治学」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫に所収)を読んだ。初出は1981年とのことだが、昨日か一昨日ぐらいに書かれたんじゃないかと思うぐらいに現代性がある。(1)
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どの順番で仕事をやってよいのかが分からなくなってきたので、とりあえずツイッターを見ているのだが、これが正解でないということだけはわかる。
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文系の研究業界は権威主義的で目上の研究者に逆らうのは許されないみたいな話がタイムラインで出ていた。なかにはそういう状況もあるのかもしれないが、ぼくの指導教授は自分の著作を批判させるというお題を大学院生に出してきたり、刊行前の著作を院生に読ませて修正すべき箇所を
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尋ねたりしていた。いくつか指摘されると、刊行された著作ではちゃんとそれが反映されてもいた。研究者として見習うべき姿勢だといまでも思っている。
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ぼくが大学生の時に読んだ本のなかに『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』(新評論、1992年)という著作がある。これは名著だと思うのだが、残念ながら絶版。「人は大なり小なり、自分を他人とは違う特別な存在だと思いたい」。そうした存在証明をいかに手に入れようとするのか(続)
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でも、有名人らにしたって持論の展開に便利だから某氏を「使って」いるにすぎない。だからこの先、某氏が困っても別に助けてくれるわけはない。本当に彼らがすべきは、このままいくとキャリアが台無しになりかねないからもうやめておけと諫めることなのに。彼らの言葉ならまだ届くかもしれない。
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正直、ツイッター上の有名人が何人も無理くりの論理で、誹謗中傷をかました某氏を擁護したり、問題を相対化しようとしているのを見ると罪が重いなあと思う。当の本人は強がってはいても、かなりしんどい状況だろうから、藁にもすがる思いでそういうのにしがみつく。
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子どもが通う中学校で「それってあなたの感想ですよね?」が流行っているという話を聞き、やや暗い気持ちになる。そこから主観性と客観性について議論しようかという話になるわけはなく、単に相手を言い負かしたつもりになるだけの言い回しだろうし。
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ナショナリズムが同胞を支える原理になるかどうかは、それがどういうイデオロギーによって支えられているかによる。ナショナリズムは別のイデオロギーと結びつくことが多いので、たとえばネオリベ的な思想と結びつけばむしろ福祉の切り下げと親和的になる。 twitter.com/ShinHori1/stat…
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相棒ではヒステリックに、熱意が過剰なものと描かれているのに対して、NHK大阪ではカネによって動員され、言われたことをやるだけという受動的な人物描写がなされていた。ある意味では対極的な表現。
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ステレオタイプは往々にして対極的な二つのイメージによって形成される。イメージが一つしかないと、現実との対応関係の維持が難しい。今回の件でいえば、熱意のあるデモをみれば前者のイメージを、落ち着いたデモをみれば後者のイメージを召喚すれば、ステレオタイプは傷つかない。
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相棒のお正月スペシャルでのデモ描写も、今回のNHK大阪の件も、メディアが社会運動をどう描くかという問題に関わっている。フィクションとノンフィクションという違いはあるけれども。
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流行りを無視するというのは難しいのだが、流行だけを追いかけて、ちゃんと基礎を固めておくことをしないと、気がつけば「ズレちゃった」のは自分ということにもなる。なんてことを思った。