乗り越えた人たちの努力や工夫は素晴らしいけれど、その乗り越えた人たちの物語に「ひとくくり」にされることで苦しい人が現にいるのでそのひとくくりをやめませんか?子どもに借金を背負わせるという制度によって苦難に陥る人たちが存在するわけだから制度そのもの是正しませんか?ということです
むしろ「ちゃんと返せた」「借金だと理解していた」「奨学金のおかげで助かった」という人たちの存在に、大人の都合で借りることになりどうしようもなく返せなくて苦しい人たちが「ひとくくり」にされて、自己責任だと責められているのが現状ではないでしょうか twitter.com/mirokumie/stat…
大抵の場合「これで大学なり専門学校行けるから!」「卒業してから返済だけどだいたいみんな就職できるしきっとなんとかなるから!」とか言われたり、大人からろくな説明なくなし崩し的に借りることにならなかった?それに10代、借金のイメージなんてぼんやりしかない。それを自己責任だと私は呼べない
出産云々関係なく減免措置の条件(やたらめったら厳しい)を緩和すれば済む話。もちろん給付型奨学金の受給条件の緩和もセットで。それが今ここにいる子どもたちのために必要なことでしょうに
10代で奨学金「借りる」時に「これは奨学金ではありません。ローンです。あなたはたった今から何百万円もの借金を背負います。卒業して就職できるか不明、就職しても充分なお給料がもらえない可能性も。返せなくなっても助けはありません。これはただの借金です」って説明された人少ないんじゃないかな
「当事者の声を聞こう」と言いながら「誰が”当事者”かは私が決める」って態度の支援者・活動家がわりといるなぁと
いいなぁ。当地含めて多くの自治体が「出て行かないで」か「戻って来てほしい」という願望を露骨に目的にした取り組みになってるけど、行っといで!と自由への背中を押してくれる「地元」の方が(私なら)ずっと好きになると思うな。戻るかどうかも自由、でも自由が尊重された記憶はずっと残るはず twitter.com/16liana_n/stat…
だから「差別禁止」ではなく「理解促進」になっちゃう
「何らかの逆境にある子を他の子の学びの素材にする」ってやり口の教育は昭和から令和に至るまで当たり前に続いてるけど、そもそもの人権教育がなおざりな日本でそれをやってしまうから「マジョリティに理解してもらうための努力やふるまいを当事者に要求する」空気が醸成されてしまうんだと思う
そもそも「子ども食堂に来ている子たちは貧困の子に違いない」というラベリングをしている時点で「私とは無関係な場所」と切り離しています。そしてそのラベリング自体が間違いです。それに気づき行動を修正できることこそ探求だと考えます。
なぜ「貧困状態の子」がその「恵まれた環境にいる子」の関心を満たさなければならないのですか?   来るな、ではありません。うちも含めて多くのこども食堂は全ての子たちに開かれています。なので「関心がある私」と「こども食堂に来てる子たち」を切り離さず、ただのユーザーとして来ればいいんです twitter.com/osaki_0310/sta…
ついでに「子どもの貧困?なら子ども食堂だ」という文脈がすでにズレているので、そこから探求してほしいです。
そしてぜひ学校の先生方も生徒たちにまずそう問いかけてほしい。総合的な探求の時間を消化して終わり、AO入試でプレゼンして終わり、自分と切り離された「社会」に関心を持って終わりにならないために。それが「探求」だと思います。
「子どもの貧困という問題に関心があります。貧困の子どもたちの力になりたいので子ども食堂やりたいです」と見学やヒアリングに来る中高生がいます。関心を持つのは悪いことではありません。ですが「関心を持てる」あなたは今どこにいるか、当事者は「関心を持つ」ことができるか、少し考えてほしい
生活困窮する人の支援で各制度利用申請の予約入れる時かなりの確率で「まずは相談だけでよろしいですよね」「その日は申請されないと思うので」って言われるけど、いや待って 申請するから 申請させろ なんで申請しないとか言えるの?切羽詰まってるから連絡してるんです。この他人事感よ
「貧困の子どもたちのために子ども食堂増やしましょう」と同じくらい姑息。同じ政府がやってるんだからそうなるのは当然の帰結かもしれないけど。どうあっても当事者に直接届くお金の流れは作りたくないらしい
貧困や差別や暴力によって人が排除される問題を「孤独・孤立」と言い換えて「孤立している人につながりと居場所を作ってあげましょう」で済まそうとしている諸々の「対策」は控え目にいってズルいしむしろ姑息だと思う。何があっても誰であっても飢えない怯えない家がある諦めない、そのための公助が先
どんな体型でも美しい ありのままの自然なあなたが素敵 そう思うこと、思えることは素晴らしいんだけど、そもそも「他人の容姿や体型をジャッジするな、口出しするな」なんだよね。どんなも美しいもありのままも自然も素敵も「あなたのジャッジ」に過ぎないのだから
だからわざわざ言わなくていい。言うとしても「相手はこの言葉を望んでるな」という確証の持てる相手と場所に限った方がいい。で、そういう関係性や場所を築くために容姿や体型の話題は必要なかったりする
他にも「それじゃない」感すごい 住宅確保要配慮者への入居相談や見守り→公営住宅増やして入居要件緩和しない? フードバンクによるこども食堂への食品提供拡充→給食費無料化しない?子育て中の家庭に直接食料品届けるとかどう? 生活困窮者支援するNPO支援→それもいいけどまず直接給付じゃない?
これ内閣官房が音頭を取ってる孤独・孤立対策官民連携プランの一部なんだけど「日本型食生活の普及・啓発などの食育の取り組みへの支援強化」がどうやったら孤立対策になるのかさっぱり理解できない。これに5億…
「私は差別をしません」と言う人が増えても世の中から差別はなくならない。「私は差別をしてしまう」からその行動を抑制する手立てが生まれる。これ、学校の人権教育にまるっと欠けてる要素なんだよね
いくら当事者の友だちがいても、身内に当事者がいても、なんなら当事者でも差別します。「私は差別をしない」とは誰にも言えないし、その言葉は何の証明にもならない。だから法と制度によって差別という行動を禁じる、個人の「気持ち」を超えて人権を守ることが必要
今読んでる鴻巣友季子さんの著書『文学は予言する』にあるディストピア三原則のひとつ「国民の婚姻・生殖・子育てへの介入」を思い出す。生殖を前提として婚姻に介入しながら緊急避妊薬へのアクセスは制限し性教育をアップデートせず望まない妊娠をする未成年含む女性、その結果生まれる子は守らない
いらんがな。お願いだから「こども」家庭庁の仕事をしておくれ。まず、今ここに生きている子どもたちのためにお金を使っておくれ。   >>こども家庭庁が結婚も支援…全国に「コンシェルジュ」、新婚家庭の家賃・引っ越し補助制度拡充 news.livedoor.com/article/detail…