Koji Yamamoto 山本浩司(@Koji_hist)さんの人気ツイート(リツイート順)

出典は平尾桂子 「職業経歴と結婚イベント -JGSS-2009 ライフコース調査による動態的分析-」 jgss.daishodai.ac.jp/research/monog… と 同『「見えざる手」と「見えざる心」 ワーク・アンド・ファミリーのゆくえ』amazon.co.jp/dp/4324099766/… です。
そうすると、女性の半減期(半分の女性が初職をやめてしまう年数)はほとんど若い世代になっても変化がなく、むしろ男性の半減期が1946-55年生まれの約13年から、1976−80年代の6年に下がってきていることがわかるのです。
「働き*続ける*女性が実際に増えているのか」というという問いに答える一つの方法として平尾が提案するのが医学統計で利用される「生存分析」の応用です。特定の時期(例えば1966-80 年生まれの男女)の職業経歴を調査し、初めて就職してから何年でその仕事を辞めることになるのかをトラックします。
その結果がこちらの図です。調査対象男性の半分が初職を辞するまでの平均年数は8.3年、女性は3.9年です。
無駄のないクリアな文体であっという間に読むことができました! 多くの方にお薦めできる良書です。本書の特徴と面白かった/知らなかった点についてメモしておきます。 twitter.com/Koji_hist/stat…
テーマもそうなんですが、やっぱりジェンダー視点を導入してみて最も違うのは、史料を手繰り寄せていくときの「態度」や「プライオリティ」に違いが出てくるんだ、ということが驚きでした。
男性は「よくばり」とは言われないのだから、女性が両立を目指すことが「よくばり」であるかのような表現は、公的メッセージとしてはやめてほしい。  それと、女性を応援というよりは「女性を応援したい男性のためのハンドブック」があるといいのでは(自分も読みたい)。 twitter.com/hiroshima_pref…
そこで、「インフォーマントに直接アクセスできないから、テーマや対象を変えよう」、と諦めない。これが、ジェンダー史的問題を設定した時のスタート地点になるみたいです。 どんだけハードル高いんだよ、と驚きました。
安田さんがもう同じことをもっと具体的・説得的に言っておられました。  twitter.com/NatsukiYasuda/…
これまで男性の起業家的行動と、その文化的あり方を中心に見てきたけど、彼らは史料いっぱい残してるんですね。 それに多くの人たちが彼らについても書き残している。 だから、エゴドキュメントにしても、議事録にしても、風刺にしても豊富にあった。
人類学的に例えるならば、自らの声を直接残すことの少なかった洗濯婦のような人の歴史を調べるのは、インフォーマントに話せない状況でフィールドワークをやるようなものなんだ、と。
こちらが関連の表です。
以上は過去の社会に深くダイブして、その視点から現代を見渡した時に見えて来たことです。 この視点は、僕がやっている二つの研究テーマを組み合わせることで、見えて来た頃です。一つには、昨年夏に始めた1630年ごろのロンドンの洗濯婦の事例研究 twitter.com/Koji_hist/stat…
ある程度まで答えることができた。それは、当時の男性たちが、その問題を気にしていたから。同じ経済活動の領域における歴史調査でも、ジェンダーを考え、女性の経験に迫ろうと思うと、途端に同じようなアプローチは、全く通用しないんだ、ということに気がつきました。
ここから、さらに、男女別、世代別に、初職継続生存時間の「半減期」がどのように推移するのかを、平尾は見て行きます。つまり、1950年ごろ生まれた男女、60年頃生まれの男女、という風にグループ分けし、それぞれの初職継続が半減する年数を調べるわけです。
常々思ってることを書いておきます。菅総理をはじめ、政府が民意を無視し、さらに説明責任を果たさずにオリンピック開催に突き進むのは有権者として納得できません。 国民に犠牲とあきらめを強いてオリンピックがなし崩し的に開催されて行くのを目撃する若い世代が本当気の毒だ。負の遺産しかない。
しかも国のエリート男性たちが残してた史料では、国策で作り始めた新型石鹸を使ってくれない洗濯婦たちは「無秩序で、威張り散らしている女性たち」ぐらいの呼ばれ方をする。
こういう記録をめぐる権力関係とか、史料のなさについては、理屈としては分かっていたようなつもりでした。 だけど、実際に具体的テーマを見つけて、調べてみると、かなり早い時期に「これ無理ゲーでは」と何度も思わされてしまう。
石鹸は1630年代に国策の一環で生産・流通の独占が敷かれるのだけど、そこで、洗濯婦が少し出てくる。なぜなら彼女たちがエンドユーザーだけら。 だけど、彼女たちはエリートが残した史料では"Wash women"とか、無名で呼ばれて終わることがほとんど。
彼女たちの経験や視点というのは、エリート男性たちが書き記した史料からは、ほとんど窺い知ることができない。
歴史研究は、もちろん過去の史料を読みこなして、それを正確に理解することを基礎とします。しかし、同時に過去と現在が意外な仕方がつながっていることに気がつく瞬間もあって、例えばジェンダーのようなテーマを歴史的観点から扱うことの大きな魅力と切実さが、そこにはあるような気がしています。
ある政治家の言動はヒトラーと似ているのか。その比較が適切かどうかは毎回批評すればいいけれど「ヒトラーとの比較自体が不謹慎」という批判はちょっと的外れではないでしょうか。そもそも民主主義的制度を持つ社会からヒトラーが台頭したのだし、
男性の労働はギルドが統制している場合も多いし、ロンドンだとそう言った組織がまとまった史料を提供してくれる。女性がギルドで奉公人としてトレーニングを受けることも稀にあったみたいだけど、洗濯くらい日常的かつ、肉体労働の次元だとそれもない。
最近の個人的な経験だけをみていると、例えば自分や周囲の人が「女だから」とか「男ってこう言うもの」とかいったレッテル貼りに直面したとしても、漠然とした不満を感じるだけになってしまうかも知れません。でも社会調査をすれば、その個人の経験を大きなパターンに位置付けることもできるし、
だから、人類学的に、彼らの生活世界の一部に入っていくような試みが比較的やりやすくて、彼らが事業を立ち上げるときに、どのようなことを気にしていたのだろう?アピールの方法は?その時の文化的背景は? 避けたいと思ってる「落とし穴は?」とか質問を立てれば、それを多面的な史料を組み合わせて