初版道(@signbonbon)さんの人気ツイート(古い順)

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太宰治は女性にモテるイメージが強いけれど、意外にもそうでもなくて、飲み屋でやけになって「僕は太宰治という小説家だ」などと女給に威張ったことも。もっとも相手はそんな名前を知るはずもなく、一緒に行った人たちは抱腹絶倒したとのことです。今だったら間違いなくモテモテだったのに残念でした。
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芥川龍之介は雨の日に菊池寛と歩いて、「僕はその時、ぬかるみに電車の影が映つたり、雨に濡れた洋傘が光つたりするのに感服してゐたが、菊池は軒先の看板や標札を覗いては、苗字の読み方や、珍しい職業の名なぞに注意ばかりしてゐた」と。面白いですね。『蜜柑』と『真珠夫人』ほどの違いでしょうか。
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今日は宮沢賢治の命日です。画像は最初の『宮沢賢治全集』(昭和9〜10年、文圃堂)の内容見本。あまり出てくることがなく、特に予約申込みハガキ付は稀です。賢治の名を世に広めた功労者の一人、横光利一の文章が目を引きます。
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芥川龍之介が『奉教人の死』で触れたキリシタン版の書物を、多くの人が実在すると思い込んだのは有名な話ですが、谷崎潤一郎によれば『春琴抄』でも、春琴と佐助の墓がどこにあるのか、読者から問い合わせの手紙がかなり来たそうです。意図しなくても、それだけ芥川と谷崎の筆は冴えていたのでしょう。
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「人生は落丁の多い本に似てゐる。 一部を成してゐるとは称し難い。 しかし兎に角一部を成してゐる」(芥川龍之介) ここでは「書物」ではなく「本」と書いています。
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芥川龍之介と室生犀星(大正13年、軽井沢)。芥川の眼がちょっと怖いです。
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吉行淳之介が川端康成に、銀座の酒場も近頃高くなったので滅多に行きませんと話したら、「じゃ勘定払わなきゃあいいじゃありませんか」と。吉行は「高僧の一喝にあったような気がした」そうですが、さすがに川端ともなると人の受止め方が違うもので、一般人が言ったら単なる無銭飲食の勧めであります。
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芥川龍之介は酸味のない果物を好み、特に無花果が一番の好物で、嫌いな筆頭格は蜜柑だと語っています。その蜜柑を題材にしてあの珠玉の名作を書いたのだから、やはり凄い作家です。ちなみに当初『蜜柑』は「私の出遇つた事」の総題の下で書かれ、菊池寛は芥川から口頭でこの話の粗筋を聴いたそうです。
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芥川龍之介は、取材記者が「雑誌の〆切が今日なんで、是非かういふ問題でー」と切り出したのに対して、「僕は、雑誌のことなんてどうでもいいんだけれども、君のために話しませう」と語ったそうです。面と向かってこんなことを言われたら、どんな記者でも芥川の信奉者になってしまうでしょうね。
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大正時代の「文壇人女見立之図」です。文豪を女性に見立てることは昔から行われていました。武者小路実篤ー尼僧、田山花袋ー女流教育家、島崎藤村ー聖母マリア、正宗白鳥ー隠居、久米正雄ーアナウンサ(モダン・ガール)、久保田万太郎ー下町娘、徳田秋聲ー未亡人とあります。あまりピンと来ませんが・・
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悲しい時、辛い時、苦しい時ほど、傍らに本があることが救いになってきました。たとえ読むだけの精神的なゆとりがなくても、本の背表紙を見るだけで心が安らぐのです。本に囲まれた人生で本当に良かった。還暦を前にして心からそう思います。
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小林多喜二『蟹工船』(昭和4年、戦旗社)の初版本無削除版。本書は最後のページを切って刊行されたけれども発禁処分に。日本近代文学館の複刻も削除本で、無削除版の存在自体があまり知られていません。『月に吠える』無削除版を超える超稀覯本で3冊のみ実見。言論の自由の大切さを伝える究極の本です。
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大正時代の「文壇人女見立之図」(その二)です。谷崎潤一郎ーダンサー、佐藤春夫ーショーガール、近松秋江ー老妓、泉鏡花ー義太夫、芥川龍之介ー殉教徒、菊池寛ー令嬢、里見弴ー踊りの師匠、志賀直哉ー貴婦人とあります。芥川の助を介に直したり、菊池の服に将棋の駒をあしらうなど中々芸が細かいです。
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講演前にくつろぐ芥川龍之介と久米正雄(大正13年、早稻田第一高等学院)。芥川は「プロレタリア文芸」について講演し、その将来に期待を寄せました。彼に小林多喜二の『蟹工船』を読んでもらいたかったと思います。
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芥川龍之介は「今までよく皆に悪く云はれた小説で先生にだけほめて頂いたのがありますさう云ふ時には誰がどんな悪口を云つても平気でした先生にさへ褒められればいいと思ひました」と手紙に書いています。「先生」はもちろん夏目漱石、宛先は鏡子夫人です。こんな風に思える先生と出会いたかったです。
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横光利一が亡くなった時、川端康成は画家荻須高徳の部屋で、空が大きく雲の多い2枚の絵を見ていました。後で横光がその時刻に死去したことを知った川端は、その絵を借りて自宅で眺め、「雲によつて私は横光君に出合ふやうにも感じた」と書いています。川端の友情に天国の横光も感謝していたでしょう。
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雑誌に掲載されたツーショットの写真に抗議する室生犀星と萩原朔太郎。犀星は「まるで下駄が眼鏡をかけてゐるやうだ」「僕は人一倍つらを気にする男だ」と憤慨し、朔太郎も「特に室生君のはヒドい」と援護しました。ちなみに抗議文と同じ号に載った2人の顔(両端、佐藤惣之助撮影)はよく見えません。
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10月30日は「初恋の日」。明治29年、島崎藤村が「初恋」の詩を『文学界』に発表したことに因んだそうですが、同誌で藤村と共に同人だった上田敏は、「そんなことよりも今日は私の誕生日だ!」と言いたいところでしょう。もっとも泉鏡花にとって10月30日は、尾崎紅葉の命日でしかありえないと思います。
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二葉亭四迷の妻によれば、夫が船中で亡くなった時、遺体の枕の下から「遺族のことをよろしく頼みます」と書かれた坪内逍遥宛の手紙が出てきました。逍遥はすぐに内田魯庵と遺稿集『二葉亭四迷』を編纂し、鷗外・漱石・露伴・藤村らが執筆。彼は以後も遺族をサポートし、二葉亭の願いに応えたのでした。
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菊池寛は芥川龍之介について「自分は彼の将来に就いては可成安心してゐる。芸術家も芸術家的壮心がなくなると駄目だが、芥川などは四十になつても五十になつても、かうした心持を失はないだらうと思ふ」と書いています。大正9年のことでした。それから7年後の彼の運命を知る者は、ただ俯くばかりです。
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夏目漱石の一周忌早朝の写真(大正6年12月9日)です。左から芥川龍之介・久米正雄・江口渙。久米家周辺で撮影され、あまり目にしないと思います。この日の『東京日日新聞』には、久米と漱石の長女筆子の結婚話がなくなったという記事が出ていましたが、久米が撮影時にそれを知っていたかは存じません。
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行きつけのコーヒーパーラー「ヒルトップ」(山の上ホテル内)が、復刻版プリンアラモードなどのインスタ映え効果で、最近若い女性客に大人気です。ホテルの常連客だった三島由紀夫は苦笑しているでしょう。「ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」と書いていますから。
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三鷹市には「女と心中するような男に税金をかけるな」といった声が根強くあり、太宰治を顕彰する活動は容易ではありません。「文学サロン」も「展示室」も関係者の努力と献身の末に生まれたものです。太宰文学を愛し、三鷹市で生まれ幼少期を過ごした者として、これからはもっと応援しようと思います。
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将棋をさす作家たち。太宰治vs井伏鱒二、川端康成vs横光利一、江戸川乱歩vs吉川英治です。
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芥川龍之介の自筆原稿を落札してしまいました。もう芥川の原稿は卒業したのに、つい・・・理由は3つあります。1つは全集未収録だったこと(ただし新出資料ではありません)。もう1つは中学生の芥川が書いたお茶目な文章だったこと。そして最後は気の毒なほど安かったこと。後悔は・・・しておりません!