全国民が心を病んでいるという国を旅した。珍しい国だ。旅人として興味が湧いた。危険度は低く、観光する分には特に問題ないらしい。空港を出ると清潔そうな街が見えた。人も普通に外を歩いている。僕はその国で様々な人と話をした。そのうち僕は怖くなってしまった。皆、至って普通の人ばかりだった。
先輩はすごい人だ。どんな相手に対しても態度を変えない。社内でも、社外でも。自分も努力しているが、上手くいかない。気に入った相手には甘くなるし、苦手な相手とはぎこちなくなる。「先輩は人によって態度を変えたりしないですね。尊敬します」先輩はニコニコして答えた。「まあ全員嫌いだからね」
私達は最後まで恋人にならなかった。大学の友人で、一晩中話しても話題が尽きなかった人。映画やライブにも行った。一度だけ手を繋いだこともあった。けれどお互い不器用で、言いたいことは言えないまま社会人になった。ドライブに誘われた夜、すっかり大人びた友人は言った。「俺達さ、結婚しない?」
五年前に別れた人とお茶をした。また恋が始まったら、と想像しない訳ではなかった。「注文しておいたよ」喫茶店に遅れて入ると、君は奥の席にいた。相変わらず気が利く。運ばれたのは桃の紅茶とケーキだった。ふいに切なくなる。やはり私達は終わったのだ。あの頃は甘いものが好きだった、今と違って。
私には好きな人がいる。たとえ、彼が他の誰かを愛していたとしても。「もう一度好きになってほしいんだ」前の彼女の話を聞くたびに、絶対に勝てない、と思い知って涙した。季節は巡る。ある日、彼は事故で亡くなった。彼の母は俯いて声を震わせた。「記憶を失う前のあなたは、この子の彼女だったのよ」
『結婚おめでとう』花嫁である私へのサプライズとして、父が書いた手紙が読み上げられた。会場はしんと静まり返る。幸せになってね、ではなく『お母さんのこと頼んだよ』の一言で締め括られているのが父らしい。いつもは気丈な母が泣き崩れた。二年前に亡くなった父が闘病中に用意していた手紙だった。
「距離を置こう」彼はそう言って少し泣いた。「ごめん、全然好かれてる気がしない」その背中を見て子どもの頃枯らしてしまった花を思い出した。きっと私は愛の注ぎ方も下手なのだ。自己満足でしかなかった。できたての料理は彼に差し出して、冷めた方を食べる習慣も。彼が泊まる時は、早足で帰る夜も。
「付き合う前の方が楽しかった」申し訳なさそうに、けれどゆっくり、はっきり、恋人は言った。それが別れの言葉になった。現実から逃げたくて夜のカフェで漫画を読んだ。思春期にハマっていた、ページをめくるたびにハラハラする少女漫画の数々。そのどれもが、主人公の恋が実ってすぐに完結していた。
「付き合って一年経つけど」彼女は深夜の喫茶店で言った。「最近なんか冷めてきたなあ、って」すぐには反応できず沈黙が続いた。あまりに急な話で。「どうしたの急に。冗談だよね?」だって昨日までは笑い合っていた。彼女はフッと表情を緩め「うん、嘘」と頷いた。「本当はずっと前から冷めてたんだ」
妻がまだ恋人だった頃、よくマックに行った。夕方になると「小腹が空いたな」と言って僕の袖を引っ張るから。でも今は寄り道をしない。「もうマックは飽きた?」買い物帰りに聞いてみると「あれはね、話し足りないって意味」と妻は答えた。そして僕の腕をそっと掴む。「なんか今日は小腹が空かない?」
なんとなく、そんな気はしていた。「今日も楽しかったね!」改札前、大袈裟にはしゃぐのは君の顔が暗いから。私を全然見ていない。踏切の音が心を騒つかせた。「俺達さあ、恋人には向いてないかも」謝るみたいに君は切り出した。「俺よりいい人がいるよ」そっか、私のためにいい人にはなれないんだね。
大好きな君が泣いている。学校を早退して、カーテンを閉めた部屋の隅で。私は優しく抱きしめてあげることができなかった。だって今日は君の元恋人の命日だ。目を真っ赤にする君に、本当は泣かないでと言いたかった。今はそばで静かに願う。お願い、前みたいに笑って。写真の中の私ばかり見ていないで。
「絶対に恋人ができる呪文知ってる?」どうしたら恋人ができるだろうと聞いた僕に、美人でモテると評判の友人は自信ありげにそう言った。「知らない。どんな呪文?」「相手に好きって言うの」僕はため息をついた。それで上手くいくのは君だけだ。「僕には無理」「嘘じゃないよ。試しに私に言ってみて」
十年間の片思いが終わった。一番の友人だった君に『ずっと前から好きでした』と送ってしまった夜に。家族にもできないような話をする仲で、近くて眩しくて、もう気持ちを隠すことはできなかった。返事を見て美容院の予約をとりたくなった。君とは何度も出かけたけれど、初めてデートしようと誘われた。
眠れない夜に寄り添う本ができました。 「140字の物語」神田澪のデビュー作。 『最後は会ってさよならをしよう』 本日1月21日発売です。 すぐに読めて心に残る、140字の超短編小説集。 本を読むのが苦手でも、忙しくて疲れていても、好きなページをパッと開くだけで想像が広がります。
部活のメンバー全員から無視されている。だけど根っからの悪人ではないらしい。部活終わり、私のロッカーに折り畳まれた紙が入っているのを見つけた。『みんなに同調してごめん。でも私だけは味方だよ』同級生の一人からの手紙だった。ふうとため息をつく。これで全員からの謝罪文が出揃ってしまった。
好きな人は、かなりモテる。「また告白されたって?」バイト帰り、泣かないために笑って歩いた。「よくご存知で」その横顔は夜道でも分かるほど完璧で、思わず目を逸らす。「今まで告白されたことしかないって羨ましい」君は私の手を引く。「正確には今日まで、になるけど」初めて見る、緊張した顔で。
スマートグラスに「ミュート」機能が追加された。ボタン一つで嫌いな人を視界から消せるというものだ。生活上必要な時だけ相手が表示される仕様で、ストレスが減ると評判だ。そんなある日、駅でスーツ姿の人から肩を叩かれた。「あなたは百人以上からミュートされました。別区画で暮らしてもらいます」
休み時間にどれだけ語り合っても話が尽きない友人だった。だから余計に焦ってしまう。この頃二人で会っても話が続かないことに。「友人は服と同じ。いつの間にか合わなくなる」とよく聞く。けれど思い出が眩しくて前を向けない。大好きな服がもう合わないと気づいた朝の冷たさに、喉の奥がひりついた。
死にたいと先生に伝えると、寿命移植のことを教えてくれた。余命わずかの人に対し、使わない寿命を移せるらしい。生きたい人の分も、なんて言葉は古いわけだ。翌日、私は受付センターへ足を運んだ。早朝でも長い列ができている。静かだった。何時間待たされても、途中で列を抜ける人は誰もいなかった。
年下の彼氏ができた。二歳しか変わらないのに、待ち合わせの公園でソワソワしているその姿が愛おしくて仕方ない。「お待たせ」私が声をかけると、嬉しそうに振り向いた。「あ、今日の服可愛い、ですね」ありがと、と言いながら、にやけないように必死だった。がんばれ、後少しでタメ口になりそうだよ。
花火大会に行った。今夜で別れる約束をした彼女と。この頃喧嘩ばかりだったから、最後は楽しい思い出を作ろうと提案された。夜空に光が弾け儚く消えていく。人が多くても蒸し暑くても幸せだった。普段は怒りっぽい彼女も穏やかで。「やっぱり別れる?」僕の言葉に彼女は頷いた。「そのために来たから」
「さっきね、バイト先の人から告白された」深夜一時。帰宅して早々、疲れた顔の彼女はベッドへ倒れ込んだ。「今月二回目じゃん」その頭を撫でるのも慣れたものだ。「嫉妬した?」「別に、今更だし」不安は隠したまま、落ち着いた大人を装う。彼女は微笑んで言った。「ねえ私、断ったとは言ってないよ」
バイト先の先輩に一目惚れをした。関わる機会は少ないけれど。「あの子、今週でバイトやめるよ」店長からそう聞いて、思いきって告白した。「ごめん。てか、よく告白したね。話したことあったっけ」先輩はクスリと笑う。恥ずかしかった。真面目に恋をしていた。人の勇気を笑える人だと知らないままで。