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話しかけられるのが嫌いだ。六月の雨の中、仏頂面で歩を進めた。都会はいい。誰もが素通りしてくれる。けれど、中には馴れ馴れしく話しかけてくるやつもいた。「傘、忘れたの?」心配そうに声をかけてきたのは、ランドセルを背負った少女。嫌だ。優しい人ばかり私を見つけてしまう。私は、死神なのに。
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「別れよう」その言葉を入力したとき、メッセージを送るのは二週間ぶりだと気づいた。初めての恋人だった。好きになると何だってできると確信した恋が、好きなだけではどうにもならないと教えてくれた。時計の針を横目に送信ボタンを押す。誰からも祝われなかった一周年記念日が、夜の中で泣いていた。
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「夜中でも会いたくなるくらい好き」なんじゃなくて「夜中でも会いたくなるくらい不安」なのかもしれなかった。
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「夫婦って言ったって、長く一緒にいると、愛なんか冷めちまう。普通はさ」祖父の通夜を終え、祖母は懐から煙草を取り出した。確かに、頑固者の祖父の扱いには苦労したことだろう。「でもねぇ、それでいいんだよ。死んで別れても苦しまずに済むから……」普通になれなかった祖母の頬は涙で濡れていた。
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最近彼が冷たい。いつも私に隠れるようにスマホを見ているのが、気になって仕方なかった。雨音の聞こえる夜。気がつくと、彼が置き忘れたスマホに手を伸ばしていた。検索履歴には「彼女が喜ぶ旅行」の文字が。外出から帰ってきた彼は、私を抱きしめながら言った。「そういえば、来週友達と旅行なんだ」
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六月の結婚式。心配していた天気は晴れ、両親もホッとした顔をしていた。「今日からは家族だよ」目に飛び込んできたのはタキシードの白。十年も片思いしていた貴方は、変わらぬ優しさで包んでくれる。「うん、よろしく」笑わなきゃいけないのに泣きそうだった。貴方は歩いていく、花嫁である姉の元へ。
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「大人になると、告白ってしなくなるよね」今夜こそ先輩に告白しようと思っていた私は返事に窮した。「え……じゃあ、どうやって好意を伝えるんですか?」隣に座る先輩は事もなげに答えた。「映画に誘うとか?」私は必死で今朝のことを思い出そうとした。前売り券をくれた時、先輩はどんな顔をしてた?
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「さっきね、バイト先の人から告白された」深夜一時。帰宅して早々、疲れた顔の彼女はベッドへ倒れ込んだ。「今月二回目じゃん」その頭を撫でるのも慣れたものだ。「嫉妬した?」「別に、今更だし」不安は隠したまま、落ち着いた大人を装う。彼女は微笑んで言った。「ねえ私、断ったとは言ってないよ」
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この頃、君は急に可愛くなった。すっきりと切った栗色の髪に、揺れるたびにきらめくピアス。目が合うとすぐに逸らすその仕草が僕の心をくすぐった。「最近変わったよね」やっと二人になれた中庭で、君は真面目な顔で答えた。「好きな人ができたの」それが別れの言葉だと、理解した時にはもう遅すぎた。
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たった一度の告白で崩れるくらいなら、君と死ぬまで友達でいよう、なんて臆病な勇気を握り締めている。
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「大人になったと思ったのは、いつ?」陸上をやめたあの子は俯いた。「限界を感じたとき」去年結婚したあの子は微笑んだ。「恋の終わりを知ったとき」ミニスカートを履かなくなったあの子は遠い目をした。「好きなものを捨てたとき」あなたは、と聞かれて私は答えた。「こんな質問をしたくなったとき」
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二人なら無敵だと思っていた。同じ丈に揃えた制服のスカート。教室の隅で、将来の夢も好きな人も一番に教えあった相手だった。大人になった今も、お揃いで買ったストラップが鞄の端で揺れている。彼女は今年上京した。こちらへ頬を寄せ「地元の友達」と紹介するこの子を、私はまだ親友と呼びたかった。
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溶けた氷が夏の音を立てる。カフェの窓際で、俯いたまま次の話題を探していた。遠くに引っ越した君に会うのは半年ぶり。「多かった?」半分残したコーヒーを指差して君が言う。曖昧に笑ったのは、飲み干すのが帰りの合図になりそうだったから。空になった君のグラスと比べると、愛の残量みたいだった。
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余命宣告を受けた親友は病室のベッドの上で頭を抱えた。「俺、間違ってたのかな」彼は本当のことを言わずに恋人を突き放した。生まれ持った優しさ故の選択だった。かつての恋人は彼の元を去り、先月別の人と結婚した。彼の表情は複雑だ。「まさか完治するとは思わないじゃん……」今日は彼の退院日だ。
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好きな人は、かなりモテる。「また告白されたって?」バイト帰り、泣かないために笑って歩いた。「よくご存知で」その横顔は夜道でも分かるほど完璧で、思わず目を逸らす。「今まで告白されたことしかないって羨ましい」君は私の手を引く。「正確には今日まで、になるけど」初めて見る、緊張した顔で。
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「好きな人がいる」と君は言った。いつもの世間話みたいに、ふわっと軽い口調で。心が砕かれた夜、君の親友にLINEを送った。しかしそんな話は初めて聞いたという。一体どんな子を。気になって、講義室で隣に座る君のスマホをそっと覗いた。読んでいたのは「興味ない相手を振る方法」という記事だった。
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望んだら、会いに来てくれますか。そんなことを言って困らせたい恋だった。「大人っぽくて、落ち着いてるところが好き」それは褒め言葉という呪い。君の理想になりたくて、何度も、何度も、甘やかな自分を殺してきた。「今すぐ会いに来てよ」やっと言えたのは三年後。午前零時、君にさよならを告げに。
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ずっと聞けないでいたこと。「私達、付き合ってるのかな」デートはしても、手は繋いでも、それ以上はない。隣を歩く君が「はあ?」と怒ったように足を止めるから、それだけで涙が出そうになった。冗談だよ、と笑うこともできない。「付き合ってると思ってたの、俺だけかよ……」君は両手で顔を覆った。
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私は悩んでいた。付き合って半年になるのに、彼は指一本触れてこない。ミニスカートも艶めくリップもまるで無力だった。休日、彼の部屋。今や私は乙女の皮を被った獣だ。「ねぇ……寒い。あっためて」寄り添う私に、彼は「ごめん、ずっと気づかなくて」と謝った。もはや暑い。3枚も毛布をかけられて。
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近頃、娘達はバレンタインの話で盛り上がっている。「彼氏でもできたのか?なーんて……」長女はこともなげに答えた。「うん」「私もいるよー」横から口を挟んだのは中学生の次女。ショックが二倍だ。「あーちゃんはね、いないよ」そう言って抱きついてきたのは保育園に通う三女。「この前別れたから」
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「好きな人の定義とは?」放課後、意味もなく友人と教室に残った。「一緒にいると毎日が映画のワンシーンみたいに思える人」さすが、優等生は言うことが違う。「何かの引用?」「いや。今、映画の主人公みたいな気分だから」そんな恋してみたいな、とはしゃぐと、友人はなぜか泣きそうな目をしていた。
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「先輩、プロポーズされたんだって。君を一生幸せにするからって。いいなあ」更衣室でうっとりしていた私に、同僚は平坦な口調で言った。「え?別に幸せにしてくれなくても良くない?」なるほど、貴方となら不幸になってもいい、というやつか。それもロマンチックだ。「だって、私は私が幸せにするし」
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彼女が結婚式を挙げたがっている。反対だ、たった一日のために大金を払うなんて。年末年始、喧嘩したまま実家に戻った。話を聞いた祖母は仏壇の方を向いて言う。「挙げてもいいと思うけどね」世間体が、という話だろう。でも僕は気にしない。「私みたいに、一回の式を百回くらい思い返す人もいるから」
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年老いた母はついに僕の名前も忘れてしまった。「ほら、母さんが食べたがってたパンだよ」今から親孝行なんて遅すぎると分かっている。母は厚切りの食パンを受け取り、耳だけをちぎって食べ始めた。「もう、真ん中が美味しいのに」僕らを見ていた父は泣いていた。「お前が小さい頃もそうしてたんだよ」