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彼は写真を撮る習慣がない。カメラロールの中には書類のコピーが数枚あるだけ。けれどせっかくの旅先だからと撮影を勧めてみた。「何を撮ればいい?」彼はカメラアプリを立ち上げて困った顔をした。「なんでもいいよ。気に入ったものを」分かったと頷き、彼はスマホを構える。「こっち向いて。笑って」
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「父にあなたのことを話したの」彼女は夕食の席でそう告げた。思わず唾を飲み込む。彼女の父は厳格な人だと聞いた。日の目を見ないバンド活動を続ける僕との交際には反対するだろう。「なんて言ってた?」「今のままでは認められないそうよ」そうだろう、と頷く。「サビのキャッチーさが足りないって」
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彼女からは冷たい人間だと思われている、たぶん。確かに感情の起伏は激しくない。映画を観て泣くこともない。表情がコロコロ変わる彼女とは大違いだ。「私が好きすぎて悶えたりしないの?」「しないね」何を今さら。問1の答えである159という数字から彼女の背丈を想像する、そういう恋をしている。
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君の寝顔を見ながら、昔のことを考えた。そういえばいつ好きになったんだっけ。ずれ落ちそうな布団をかけ直してあげつつ、頭の中で季節を遡る。道案内をしてもらった春?案外気が合うと気づいた夏?明確には思い出せなかった。けれど不思議と悪い気はしない。きっと君を好きな理由は一つじゃないんだ。
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死んだように生きている。疲れては寝る、を繰り返すだけの日々。この生活をあと何十年続けるのだろう。気怠い夜、ある本のことを思い出した。「人生に迷ったら読みなさい」と恩師に手渡されたものだ。本棚を見てみようとしたが、睡魔に襲われ目を閉じる。今日も疲れた。また明日、気力があれば探そう。
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幸せになってね、と妻は言った。それが最期の言葉になった。笑顔の写真をそっと撫でる。儚げな見た目とは違い、随分勝ち気な性格だった。結婚する前も後も、目が回るほど振り回された。器用な僕はなんだかんだで君の願いを叶えてきたけれど。教えてくれ。どうやって幸せになればいい。君がいないのに。
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花を育てている。恋心によって育つ花だ。好きな人ができた時に芽を出し、今では深紅の花弁が光を受けている。綺麗だった。そろそろか、と二人きりの夜に告白した。「ごめんなさい」謝る時まで君は優しい。その夜は泣かなかった。半年経っても花が枯れていないと気づいた時、初めてぽつりと涙が落ちた。
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「貴方の死因になりたいわ」熱い溜め息をついて彼女は呟く。月夜、刃物でも握ってくるかと思ったらそうではない。こんな命、別にくれてやっても良かったが。世話好きで、つまらない話にも笑う、親切で損ばかりする人だった。だからうっかり長生きした。こんな歳になって死ぬのは、まったく君のせいだ。
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全国民が心を病んでいるという国を旅した。珍しい国だ。旅人として興味が湧いた。危険度は低く、観光する分には特に問題ないらしい。空港を出ると清潔そうな街が見えた。人も普通に外を歩いている。僕はその国で様々な人と話をした。そのうち僕は怖くなってしまった。皆、至って普通の人ばかりだった。
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好きな人から告白される夢を見た。五年も片思いした人から、静かな海辺で。幸せすぎて泣きそうだった。目が覚めた後、枕元で動かしていた機械を止めた。液晶には完了という文字が表示されている。「一生叶うことのない夢」を見せる機械に異常はない。それを見て決めた。やはり自分から告白しなければ。
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「今週末、買い物付き合ってよ」下校中、君は桜並木の下で言った。いいよと短く返事をする。嬉しさが声にこもらないように。硬い種だと思っていた恋はいつの間にか芽吹いていた。何も与えずとも健やかに育つ。育ってしまう。「彼女に何を贈るか悩んでてさ」枯れる日を待つだけの花が、胸の奥で揺れた。
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魔法使いに拾われ、育てられた。無口で合理的な人だ。新薬の被検体にするために拾われたのかと疑ったことも一度や二度ではない。けれど他の魔法使いとも関わるうちに知った。曲がったタイを整えるのも、寝癖を直すのも、本当は魔法を使えば一瞬で済むらしい。あの人はいつも丁寧にやってくれるけれど。
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分かりやすい言葉が欲しかった。好きなら好きと言えるはず。そう信じて疑わなかった。深夜二時、SNSの投稿を見るだけで心が暗くなる。記念日。サプライズ。プレゼント。誰も彼もが自分より幸せそうに見えた。望むな、考えるなと頭の中で繰り返す。時々くれる連絡だけで満たされる大人になりたくて。
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恋とは可能性のことだ。「遠距離は絶対に無理」と断言した自分が、随分と変わった。自室の窓を開け、春の月を眺める。その白い輪郭はじわじわと滲む。触れられない恋などありえないと思っていた。なのに記憶の中から優しい声を探してしまう。もう涙を拭ってはくれない、星になった君を想い続けている。
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「好き」と「可愛い」を溢れるほどくれる人だった。文字でも、電話でも、二人で過ごす休日の中でも。私に可愛いなんて言うのは今までは両親だけだった。『可愛いね』トーク履歴に残る君の言葉が新鮮で、少し恥ずかしくて、死ぬほど嬉しくて。全てをくれた。「付き合おう」という一言以外は、なんでも。
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「恋止め薬、飲む?」初めてできた恋人は、小さな瓶を手のひらにのせて言った。飲めば他の人には恋をしなくなる薬。「どうしよっかな」翌朝、机の上には空になった瓶が置かれていた。あの日から五年。結婚が決まった今、心から幸せだと思う。春風の中、笑顔で頷き合った。「あの薬、捨ててよかったね」
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「せーのでお互いトーク履歴消そうよ」別れ話の後、君からそう提案された。履歴が残ると恋しくなるから、だそうだ。「もう昨日消しちゃった」「ちょ、容赦なさすぎ!」夕方のカフェでげらげら笑う。こんな時でさえふざけた会話ができる君を好きになって、けれどそればかりだったから別れた二人だった。
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好きだと告げた日から、二人きりでは話せなくなった。「おはよう」「……はよ」朝、廊下で見かけた君はスッと目を逸らし、去っていった。避けられている。あの日から徹底的に。遠ざかる後ろ姿を見つめるだけで喉の奥が苦しくなる。君と話す時間が好きだった。苦しくても、一番の友達でいればよかった。
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『会いたい』真夜中にLINEの通知がきた。送ってきたのは甘え下手な彼女。こんなことは初めてだ。まだ終電あったっけ、なかったら電話するか、と考えながらベッドから起き上がる。もう遅いし電話かな。トーク画面を開くと『会いたい』の一言が消えていた。『送信を取り消しました』という表示を残して。
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「あっ!」彼が急にスマホの画面を指差した。なぜか口をパクパクさせながら。「どうしたの?」映し出されていたのは子猫の写真だった。真っ白なタオルの上でとろんと眠そうな目をしている。「可愛いね」私の言葉に彼は嬉しそうに頷いた。なるほど。昨日、他の子に可愛いって言わないでと怒ったせいか。
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「元気に行ってこい!」彼女にドンと背中を押された。春、空港の保安検査場前。僕はそれでも名残惜しくて、最後に彼女を強く抱きしめた。「一緒にいられなくてごめん」「何言ってんの。飛行機に乗ればすぐじゃん」明るい声に励まされゲートの向こうへ。搭乗の直前、彼女からLINEが届いた。『寂しいよ』
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君は勘違いをしている。「ほんと優しいよね。天使みたい」手を繋いで歩く真冬の帰り道。君は呟くように言った。確かに刺々しいタイプではないと自分でも思う。けれど黙って首を横に振った。これは謙遜ではない。繋いだ手に力を込めた。この笑顔を曇らせるものがあれば、きっとどこまでも冷徹になれる。
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君がいなくなることが別れだと思っていた。でも違った。いつも君が煙草を吸っていたベランダで星を見る。いなくなってしまった。君と手を繋いでいる時は素直になれる私も。君と話す時は本音を言う私も。だからもう誰かの前で子供みたいに泣いたりはできない。深まる夜の中にひとり、そっと涙を隠した。
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「べた惚れが百としたら今いくつ?」昼休み、教室で君にそう聞くと即答された。「五かな」「少なっ」やや強引に告白をOKしてもらった自覚はあったが、先は長そうだ。けれど会うたびに大好きと伝え続けて一年、君はやっと照れた顔で答えた。「今は百だよ」どうして私だけ五になってしまったのだろう。