本を作る為読んでいた富山連隊史の仏印駐留当時の一文。「軍は各部隊に対し、独立運動の支援を禁じた」。 大東亜戦争の植民地解放がスローガンにすぎなかった事がよく分かる。 蘭領インドなんか、現地の人の協力とスハルト氏の人望で収まっていたけど資源地帯は永久に帝国の領土にするって言ってる。
「軍の論理」が政治を覆い、文民統制が揺らぎつつある現状が危ういーと的確な警鐘。 〈社説〉防衛省世論工作 思想良心の自由を侵す|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト shinmai.co.jp/news/article/C…
一億憤激米英撃砕運動資料を受けたとしか感じられない主婦之友1944(昭和19)年12月号。11月6日印刷納本なので、10月の資料のさっそくの反映です。米英は野獣とし、婦女子は皆襲われると脅し、「こうしてぶちころせ」と。各ページでも繰り返し、これが婦人雑誌かと思わせます。(続)
現在の長野県佐久市にあたる野沢町の大日本国防婦人会資料です。展示会で示した戦争経済腰折れの後は、こうした組織が戦争を引っ張った様子が伝わります。 なお、当時の女性にとっては堂々と家を出て社会的な行動ができる側面からも人気で積極性もあり、軍部はそんな思いも戦争で消費したのです。
戦争末期を感じさせる、和紙の慰問袋。色は写真より茶色っぽく、閉じるのは紙こより。慰問袋は衣料きっぷ無しで買えた布製品でしたが、品が無ければ入手出来ない。以前、紙製の慰問袋を入手しましたが、こちらは紙も払底してきて登場の感があります。資源ない国の戦争は、こんなモノを生み出します。
日中戦争開戦間もなく、大阪毎日新聞と東京日日新聞が募集した懸賞歌で2位となった「露営の歌」の絵葉書。こうやってメディアが事業で煽った事は記憶しておきたい。それにしても「死んで帰れ」とか「東洋平和のためならば なんの命が惜しかろう」とか、当時の偏った使命感が切ない。(´;ω;`) (続)
関東大震災関連本を読んでますが、その体験、見聞の凄惨さに泣けて泣けて。。 歴史修正主義の方とかは、個人の記録を軽視しますが、関東大震災の特に虐殺の公式記録と実態の大きなズレを見ると、戦時下の出来事とかも、公式文書とそのほかの様々な資料の付き合わせがいかに大切か、実感できます。
そしてトンデモ本に捕まらないための参考書には「昭和史がわかるブックガイド」が良いかと。選者が本を紹介するのに加えて概説を載せているので、通読するだけで基本が分かり、興味の湧いた分野を深掘りできます。更に先に行くには、その本の参考文献を調達していくと。立派な沼が待ってます(*^^*)
戦前日本に甲種合格者全員を収容教育する施設はなかったから現役は甲種の一部。そして戦時における臨時召集礼状が赤紙。奈良県で見てみろ。二国の赤紙だ。昭和6年の書類だが、ここでも丙種までの召集は想定されてる。徴兵検査受けた男子は年齢除けば全員赤紙の対象者。断言には責任がいるんだよ。
労働を支える魚肉ソーセージ、軒並み70グラムから60グラムに切り替わってきてる( ゚∀ ゚)
信濃毎日新聞デジタルの記事です。登録だけで読めますので、是非! 「イケイケ!」から「アレアレ?」へ 「戦争トイウ流行」を読み取る 長野市で9日から戦争資料展|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト shinmai.co.jp/news/article/C…
その日に過ちを繰り返さないって誓うことこそ、互いの信頼を深める行為じゃないか。最近は忘却させようという策動が目に付くけど、誤魔化しで真の融和は出来ないでしょう。だから、自腹で調べて、ツイもしたんですよ。
月刊誌「主婦之友」の新年号を並べました。1941(昭和16)年は340ページほどで笑みも感じられます。1943年、指導で歯を見せる笑顔が禁じられた影響が見えます。1944年、勤労女性にという指導を受け、笑みもダメなので顔を大きくする構図が無くなります。1945年は色もわずかで54ページまで減りました。
戦時下における「ヒトを出せ!」で1番に来るのは徴兵ですね。こちら、展示予定の徴兵に備えて用意してあった奉公袋と入営時に私物を送り返すヒモ、そして軍隊手帳や遺書のたぐい。遺書や遺髪は出発前に置いていこうと用意。死んでも紙一枚っていうのも多かったですから。命の軽さと見るか覚悟と見るか…
79年前の今頃、1943(昭和18)年12月発行の「主婦之友」。国土防衛号と題して防空関連の特集ですね。笑顔はイカンと指導を受けてこんな表紙絵に。冒頭でいきなり「戦争に強い日本婦人」と来た! そして敵は焦って短期決戦に出てきているという妄想を開陳して安心させようとする姑息さ。(続)
これも万札溶かした( ゚∀ ゚) 日中戦争中の「戦勝ゲーム」。昔からあるパズル「箱入り娘」の派生品で、説明文は「重慶攻略」とあるので、1939(昭和14)年から1941年ごろのもの。日の丸の日本軍の駒を軸に動かし、蒋介石を大陸(箱)から追放すると。竹と紙箱という構成から、木の利用も窮屈なのかと。
82年前、1941(昭和16)年3月17日に長野県長野市の長野警察署長が署員に配布した「特高秘収第802号」。同年3月8日公布の改正治安維持法を旧法と対比して説明したもの。この改正では、結社の支援を目的とする結社を支援した人も懲役に加え、刑期を終えても拘留しておく予防拘禁制度が加わるなど、(続)
なかなか開かなかった臨時議会をようやく18日に開くことになったのを受けての社説で、桐生悠々の筆によるとみられます。表題は軍批判に思えますが、実は絶対多数与党の政友会の行為によって、政党そのものが見放されるとの危惧を述べています。次からが著作権切れを受けての引用になります。(続)
心しておかねばならないのは、当時の「日本人」が朝鮮人を同胞というより蔑視の思いで見ていた事が明瞭であること。そして、その暴力性でしょうか。
今が戦前、と言う言葉に接した時に思い浮かべる事。 その一は行政力の肥大。司法も立法も機能不全で、行政が何でもできる状態は、独裁政治とどこが違うのか。自由にできる戦時体制を生み出す事が、肥大した行政の夢だろう。 (続)
釜ができて、とりあえず抽出した松脂もドラム缶がないので運べないとか。とにかく松根を掘っている間だけは無心に「戦争やってる感」に浸れたのでしょう。合理的思考ではなく、ただただ、追随させるという効果は間違いなく発揮したでしょう。戦争やり続けている間だけは、軍部も官僚も安泰ですからね。
長野県でも同様の飼料不足が発生しました。一時、繭から糸を取ったあとの蛹を与える方向で落着かと思いきや、今度は蛹を使っていた養魚業者から文句が出ます。使えるものはみな上手に利用しあっているのです。戦争がそこにねじ込まれると、こうして破たんしていくのです。いかに無理をするかですね。
「表面上は、民主主義を守ると言っているが、多数残されている安倍元首相の疑惑を覆い隠し、安倍政権の評価を固めて自民党政権を守ろうとしているのではないか、と。」(続)
日中戦争当時、1937(昭和12)年12月17日に長野県喬木村で行われた村葬の業務書。特に興味深いのが会場配置図。中央に位置するのが小学校生徒、男子青年学校生徒、中等学校生徒。つまり、小学生女子を除けば次世代の兵隊候補です。ここに、軍人の村葬の狙いが見えます。ただの追悼行事じゃないのです。
@mou3dayo いえ、国の指示によって行っています。1944(昭和19)年末に軍需省の局長らが指示して全国で取り組んでいます。ただ、実際に役立てられたかどうかは地域差があったと思われます。sensousouko.naganoblog.jp/e2217566.html