投資、投資って政府が推奨するのは、金の流れを作ってどっかに儲けさせるためでしょ。どこにそんな余裕があるやら ( ゚σω゚) 戦時下の投資話のまとめです。戦争で流れる大きなカネの流れをどう掴むか。競走の果てに最後は紙切れになったんですよね。sensousouko.naganoblog.jp/e2227307.html
貯蓄から投資へって、戦時下でもたくさん聞かされます最終的に発行しすぎた紙幣回収のインフレで紙くずにさせられるですが。 もっとも、戦争とは関係ないけど、大口利用者には「損失補填」なんてのがあったか。
戦争になったら軍需産業が儲かるから戦争起こしたがるなんて話は、戦争の一面のごく1部しか表していません。アベさんも言ってたでしょ。防衛予算増額は国債でって。こうやって動く巨額のカネに関連する有象無象が群がるんですよ。
戦争になったら自由に何も出来なくなったというのは嘘。戦争の尻馬に乗る連中がどれだけ自分が天皇になったつもりで発言し行動し富を簒奪し、自由に振舞ったか。朝日の編集委員とか闇料亭でウイスキーラッパ飲み。そして、そんなミニ天皇が日本全国で戦争を鼓舞し、戦後は占領軍にくっついたんだからね
こうやって戦争になったら儲け仕事だって勇んで前線に出ていく奴らが、もっと勝てもっと勝てと煽った張本人たちだ。そして、その一番の問題の連中が一切反省も責任も感じることなく、あれは軍が悪かったって平然として、今また蠢こうとしているのを見逃しちゃいけない。
戦時下で儲けた人をあぶり出すのは難しいですが、そうした人達を狙ったさまざまな資料があって、戦時下の格差を伝えてくれます。こちら、戦時中とは思えない1938(昭和13)年の夏にむけた軽井沢の別荘販売パンフレットです。実際に資材不足の中、別荘が次々に。 sensousouko.naganoblog.jp/e1890405.html
展示会では、いかにたくさんの方々が戦争の尻馬に乗り、その勢いが戦争を加速させたか伝えたいと思います。とは言っても難しいお話じゃなくて感覚で感じられるようにと思ってます。こちら、美人広告の系譜にある慰問用のハエとり粉広告です。
戦争状態をするとどれぐらい庶民は苦しくなり、儲かるやつは最後まで儲けているかが感じ取れるような資料をまとめ、こおの夏は展示会をやりますので、ぜひお越しください(*´ω`*)
学校教育についての論議が出ている中、こちらは長野県和国民学校の生活指導研究。皇国民の錬成として、特に皇国民の自覚確立に力を入れています。皇運を扶翼し天皇支配の絶対化と天皇の為に死ねる軍隊育成に役立てたことでしょう。 全ての基礎は教育勅語。今は教育基本法に注目を続けねばなりません。
77年前、1945(昭和20)年の今頃発行された主婦之友5月号。表紙は炭鉱で働く女性。必勝の戦場生活とし2.26の斎藤瀏の詩で鼓舞し、日本人は復讐心が旺盛と刷り込み、手榴弾の練習をしろと。婦人雑誌もここまできましたよ。
90年前の今日、1932(昭和7)年5月15日。5・15事件発生。新愛知の号外は、まだバタバタ。翌日朝刊は首相重体とあるけど、亡くなっていました。 犯人たちは動機を褒め称えられてるんですよね。海軍側公判の号外。力を振り回す事こそ良しとして、議論し詰めることを否定する国民性に一番問題があったか。
戦時下、列車に乗るにも理由がいりました。軍需優先で民需に当てられないから。 こちら、長野の実家への疎開相談という理由でやっと警察から出してもらった証明証。でも、切符の発売日にこれを手にして並んで買わねばなりません。発行予定数が終われば証明があろうと、切符は出してくれませんでした。
64年前、1958(昭和33)年2月発行の月刊誌「丸」を入手。真珠湾攻撃の紹介の冒頭「…日本の奇襲が一応成功したのは、米国民を戦争に曳きずりこむために画策したルーズベルト米大統領の陰謀であった、等々といはれてはいるが…」とあり、そんな陰謀論がこんな昔からと驚く。逆に代わり映えもしないと。(続
戦前日本、特に昭和初期は庶民が軍隊に過剰な万能感を持っていたけど、今も変わっていない人がけっこういるのだなと感じました。
今日はこどもの日、端午の節句ということで、日中戦争開戦翌年、84年前の今頃の1938(昭和13)年の端午の節句用に作られたとみられる兵隊人形です。万里の長城風の絵をバックに、右大臣あたりがつけていたであろう刀を持って…。五人囃子からの転身でしょう( ´・ω・`) (続)
最近、珍品の発掘が続いていて、今回も85年前そのままの代物。1937(昭和12)年10月5日、長野県教員互助会が出征する会員(教員)に送った記念品一式です。武運長久を祈る日の丸と慰問金10円。戦争ができる国というのは、こうしたシステムが張り巡らされていて、兵士を送り出せるようになっていると実感。
日本がかつて攻め込んだ国をあげて、攻め込まれると煽る。9条さえ変えれば国が守れるという方こそ、9条信者とお呼びすれば良いか。 戦争の大きな要因は貧困と差別だと思っています。日本は憲法前文の精神に則り、その解消に力を入れ世界をリードすることこそ一番の国防と思います。
こちら、1933(昭和8)年2月8日の写真ニュース(発行者不明)。国際連盟のリットン報告書などの勧告案採決を前に日比谷公会堂で7日に行った国民大会。「連盟何者ぞ」と自分達を強大に見せる表現の一方で「国際連盟大弾圧の下に」と被害者意識を肥大化させているあたりが、当時の雰囲気を映し出します。(続)
父は、ずっと、あの戦争とは何だったかを知ろうとしていました。権力は、戦後一貫してその姿を薄めようとしてきました。自分は、その流れに抗いたい。自国にも他国にも引き起こした惨禍と経緯を知り、後世に伝えたい。それが次世代の行動の為の、大切な武器になると信じています。
今度は父親の葬儀を出して引越した当日に宇治山田空襲に。アルバム1冊を持ち、逃げ延びます。 戦争から生きて帰る、戦地になんとか取られないように…ささやかと言えば、とてもささやかな抵抗ですが、そのおかげで祖父と父は生き残り、戦後を働き、そして今、私がいます。(続)
行かないかと募集があり、200円貰えるという事で手を上げます。ところが、いろんな名目で中抜きされ、僅かしか残らず「世の中、こんな風に出来ているんだ」と実感したとか。そしてb29の空襲を受け、作業台に隠れて貫いてくる爆弾から何とか逃れました。そのうち元の海軍工廠へ戻りますが、(続)
祖父は太平洋戦争でニューギニアに出征しました。自宅に妻と子供2人(1人が母です)を残し。「家族のため、必ず帰る」という信念で赴いたということです。さまざまな努力の末、終戦。仲間が山に逃げるという中、祖父は海岸近くに残って捕虜となり、帰還したということですが、山の仲間は帰らず。(続)
父は国民学校を卒業した翌日、1944(昭和19)年に海軍工廠へ行きます。太平洋戦争が始まった日、地図を広げて「日本は負ける」と直感した人です。既に兄2人は出征、自分も戦争に行かされるだろうが、海軍工廠にいれば少しでも遅くなるとの見通しからでした。そのうち中島飛行機の武蔵工場へ(続)
憲法記念日ですが、年々、権力者が憲法を棄てようとする圧力の高まりを感じます。しかし、権力に抗う事こそが大事であり、抗い続ける限り、敗北の連続であろうとも、先人の犠牲の上で得た憲法に恥ずかしくない生きざまをしたと、胸を張って次代に期待し託せると思います。 祖父と父の話をします。(続)
満州事変の時って、ものすごい盛り上がったんだよね。非常時に、操作ひとつで一斉にひとつの方に動かされやすいって事はよく覚えといた方がいい。同調圧力の強い日本ではなおさらね。満州事変国防献品記念録より。