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笹川良一の重光葵評、これは十分納得できるものだった。
…上海で爆弾の洗礼を受けてからの重光氏は、死生の間をくぐったその貴重なる経験の賜か、軽薄な外交官出身者には到底見ることの出来ない肚の人となっていた。… twitter.com/i/web/status/1…
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東條内閣書記官長でA級被告となった星野直樹の東條英機評。裁判での東條の主張をわかりやすく書いている。… twitter.com/i/web/status/1…
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映画「プライド」を見ていたら、ブレークニー弁護人の有名な発言が再現されていた。… twitter.com/i/web/status/1…
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荒木貞夫は東京裁判の起訴状を天長節に渡されたことに対して「いやなことをするものだ」と書いている。山下将軍や本間中将の場合もそうだが、あの“戦犯”裁判では、意味のある日時に合わせていることがやたら目につく。東條が大森から巣鴨に移ったのは昭和20年12月8日、入獄手続きの指紋押捺時刻が… twitter.com/i/web/status/1…
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東京裁判で7人が処刑されて10年しか経っていない時期の映画「大東亜戦争と国際裁判」では、日本人弁護団の国家弁護派と個人弁護派の対立が描かれているが、両派とも真剣であり、その描写が非常に生々しい。
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武藤章中将の死刑判決後の日記に、同じく死刑判決を受けた東條さんに、自分が死を恐れない理由を話すところがある。ここでも東條さんの人間性が伝わる。… twitter.com/i/web/status/1…
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@kitanihonganba 私もカンパします。許しがたい政党です。
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これが共産党。 twitter.com/ixabata/status…
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昭和27年に来日にしたパール博士が大川周明に語った言葉。
「日本は独立したといっているが、これは独立でもなんでもない。しいて独立という言葉をつかいたければ、半独立といったらいい。アメリカによって与えられた、歪められたものの見方や、考え方が少しもとれていないではないか」… twitter.com/i/web/status/1…
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昭和27年、パル博士が4年ぶりに来日したときの第一声がこれである。
「このたびの大戦の最も大きな災害、最も大きな犠牲は〝真理〟である。われわれはこの真理を奪い返さねばならぬ」
みなさんはどう感じただろうか。
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そしてこれがパール博士が日本を去るときに残した言葉。正直、涙が出てきた。… twitter.com/i/web/status/1…
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パール博士は日本の行く末が見えていたのか、日本人に以下のような警告を発していた。… twitter.com/i/web/status/1…
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昭和27年に訪日したパール博士が口にした日本批判は、そのまま今の日本批判になっているものばかりだ。… twitter.com/i/web/status/1…
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広島の原爆の碑を見たパール博士の言葉は、今の日本人に重くのしかかる。… twitter.com/i/web/status/1…
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市ヶ谷の極東国際軍事裁判法廷で打ち合わせ中の弁護人たち。重光葵は『巣鴨日記』の中で、これら米国人弁護人の「国境を越えたる職務上の努力は真に敬服に堪えず」と述べている。その弁護の姿勢に、東條元首相は被告席で涙を流したこともあった。… twitter.com/i/web/status/1…
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巣鴨プリズン収監者の手記を読むと、東條元首相のことに触れているのをよく見かける。
児玉誉士夫も東條元首相のことをよく書いている。
昭和21年2月28日
…中食のとき、はじめて東條さんと廊下で立話をした。… twitter.com/i/web/status/1…
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米国人弁護人が陸軍省情報部のブラットン大佐に証言させ、日本の卑劣な騙し討ちである真珠湾攻撃が、実は大統領も含め、米側は事前に知っていたことを明らかにした。村田省蔵はそのときの法廷の様子を「検事側一言も発せず、裁判長また沈黙を守りたり」と日記に書いている。… twitter.com/i/web/status/1…
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この時の法廷の記録によると、ブラットン大佐が日本大使館宛の、暗号簿と文書の破棄命令を傍受したのが12月3日で、日本大使館では文書の焼却が見られた。大佐はそのことを諜報部長マイルズ将軍と作戦計画部長ジェロウ将軍に報告、おそらく開戦を意味する、ということで意見が一致した。… twitter.com/i/web/status/1…
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ここでの話の中心は、昭和22年の段階では、関係者以外知らなかった「卑怯な日本の騙し討ち」の裏側、米側が日本の攻撃を、その日時まで把握していたということを、米国人弁護人(ブレイクニー少佐)が明らかにしたために、判事や検事が驚きのあまり絶句した、ということ。米国人弁護人は、法廷に呼ん… twitter.com/i/web/status/1…
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重光は東條のことをかなり気に掛けていたようで、重光葵の『巣鴨日記』には東條の話がよく出てくる。「単に東條を悪人として悪く云えば事足れりと云う風な日本の世評は浅薄」と重光。自決失敗後、東條はマッカーサーの見舞いを受け感激したという話も。昭和21年10月20日の日記から抜粋。… twitter.com/i/web/status/1…
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巣鴨プリズンではA級被告らは真冬も朝夕丸裸にされて検査される。
そのことを重光葵は「巣鴨日記」に次のように書いている。
毎日二十六名の老人の丸裸姿を見せられるのは気持好きものに非ず。老人の裸形は形をなさず、ただ悲哀を感ぜしむるのみ。これ皆当年の権臣なり。
化物の裸行列に家寒し… twitter.com/i/web/status/1…
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BC級裁判で多くの日本人が捕虜虐待の罪で絞首刑や終身刑等に処されているとき、凄惨な虐待が連合軍兵士によって各地の戦犯収容所で行われていた。巣鴨はずいぶんマシではあったが、A級被告に対してさえも、戦犯裁判と同じ基準を当てはめれば、重罪が課せられるであろう“虐待”が続いていた。被告たち… twitter.com/i/web/status/1…
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重光葵は「巣鴨日記」の中で、巣鴨プリズンのことを狂宿、狂人宿と呼んでいる。日本人に対する扱いがあまりにも非人道的だったからだ。… twitter.com/i/web/status/1…