墨東公安委員会(@bokukoui)さんの人気ツイート(古い順)

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実のところ、ナチスの軍需産業投資による景気回復は、後先考えない手形の発行が支えていたので、長いスパンでは破綻する、「悪いこと」でした。戦時中の水準維持も、占領地からの掠奪によって成り立っていますから、被占領国民からすれば「悪いこと」でした。ナチスの「良いこと」は見せかけでした。
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ポストモダンの鬼っ子たちの「逆張り」は、物事をより広い・長い視野で見ることを拒み、わざと一部を切りとって「良いこと」であると言い募っているだけではないでしょうか。その背景には、田野先生のご指摘のような世相があるのはその通りでしょうが、もっと単純に自己顕示欲の中二病もあるのでは。
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私が「ナチスは良いこともした」ネタでいつも思い出すのは、昔の2ちゃんねるの伝説の書き込み「初カキコ…ども…」です(知らない人はこのフレーズでググってください)。人とは違う自分を演出したい中学生が、「尊敬する人 ヒトラー」とやってしまうイタさを、この上なくよく表しています。
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しかし皮肉なのは、「世間一般のものの見方とは違うオレ」を演出しようとして、そこで陥ってしまうのが手垢のつきまくった歴史修正主義的言説だったりすることです。学魔・高山宏先生の言葉を借りれば、「そこで人は際立とうと夢みて、かえって類型と複製に化す」のであります。
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ところで話を戻して、さっきのグラフでナチスは国民の生活水準向上に注力し、戦時中もその維持に励んだとはいえます。それはなぜか。第一次大戦が、食糧不足による国内の混乱での国家崩壊により革命が起こって、負けてしまったからですね。神をも恐れぬナチスも、実はドイツ国民を恐れていたのです。
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その点日本では、太平洋戦争どころか、日中戦争勃発以後、生活水準がダダ下がりのまま敗戦に至っています。日本では、政府は臣民をどう見ていたのでしょうか。私たちのご先祖は、革命を起こす可能性を政府に懸念されていなかったのか。そこを考えると、良い悪いでは割り切れぬものを感じます。
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明治に国民全員に苗字を名乗らせ、それを「戸」の共通呼称としたのは政府の国民管理の都合であり、それもかなり成り行きで決まったもので、それまでの名づけとは隔たっていました。それを「伝統」と称して個人の人権を制約してまで墨守する必要は、ないと思います。 twitter.com/chosakukenho/s…
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その辺の話は尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』がとても詳しく、かつ実例を豊富に挙げて面白く解説してくれているのでお勧めです。明治政府の名前をめぐる政策のドタバタもよく分かります。徴兵事務の都合を21世紀まで持ち越すことはないですね。 amzn.to/3akSk9k
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まさにその通りだと痛感します。「清濁併せ呑む」という言葉はほぼ100%、「濁」を正当化する詭弁に過ぎません。これが行き過ぎて、「濁」を飲むことが「正しい」ことで、「清」にこだわることが「お花畑」と馬鹿にされるという、顛倒した世の中になっているように思われてなりません。 twitter.com/Actin_ium/stat…
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議員の数を減らせば減らすほど、「居眠りしてても選挙で落ちない」 議員ばかりになっていきます。目先の利潤を最大化する企業の経験は、公平性を貴ぶべき政治の場に、必ずしも適合的ではありません。 yomiuri.co.jp/national/20220…
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ひろゆきがもてはやされるのも、「清濁併せ呑む」の顛倒の一つの現れでしょう。理想を冷笑することが「現実的」なので「正しい」という顛倒です。何らかの理念に基づいて正しさを決めるのではなく、目の前の権力者や風向きに流されるのを「正しい」と思ってしまうのです。 twitter.com/NCYQ7Q9VoMo6zg…
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6月4日は天安門事件の日で、日本でも事件に触れる声が多々あったと思いますが、その声を上げた人のうちどれだけの人が、33年前に天安門広場へ集まった人びとの、自由と民主化への熱い思いをいくらかなりとも共有している、したいと思っているのかを考えると、暗澹たらざるを得ません。
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いまRTした、冷笑系ネット民の代表格たる「もへもへ」のように、日本のネットで天安門が語られるときは、権威主義的な権力の強権への反発ではなく、中国蔑視や、人権尊重を訴える人を腐す屁理屈にするという、天安門の犠牲者たちと全く逆の思いが見えてしてしまうのです。
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むしろ日本で天安門事件を言上げする人の少なくない部分は、日本で人権や自由を求める運動に対して、天安門の市民に発砲を命じた権力者の側に近いメンタリティで接してはいないでしょうか。所詮は自分の問題として自由や民主を捉えておらず、冷笑のネタでしかないのではと思うのです。
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今RTした、白饅頭を東浩紀氏が持ち上げていた件もまた、日本の現状を問題視して批判することを冷笑して、問題を悪化させておきながら、自分らが批判者より高みにいるかのように振る舞う、下劣なものでしかありません。それに同調する冷笑者の多さにはうんざりします。 twitter.com/9DUTZwxTUPq0UK…
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白饅頭やもへもへの手合いは、社会を見つめなおして現状批判するという、人文学や社会科学の役割を攻撃し、現状に同調して異議を唱える弱者やマイノリティを冷笑ことが「現実的」な「健全な市民」であると思い込ませる、碌でもない連中です。ニセ科学ならぬニセ人文学とでもいいますか。
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そして私個人が悲しく恐ろしく思っているのは、ニセでない人文学を学んだはずの人も、ネットにはまりすぎると「ニセ人文学」に傾いてしまうのです。今の東氏がそうですし、呉座勇一さんも白饅頭やもへもへの類としばしばやりとりし、RTもしていました。私はやめとけと直言したのですが。
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呉座さんは論文を読んで批評してくれる人よりも、ネットの「お仲間」――その多くは「ニセ人文学」的冷笑の徒輩――を向いたままじゃないかと私は思わざるを得ないのですが、その連中の頼りにならぬことはすでに明らかだと思うのです。冷笑のネタを探してるだけだから。 twitter.com/AtTheBlackLodg…
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でも東氏にせよ呉座さんにせよ、なんでまっとうな人文学を学んだはずの人が、白饅頭の手合いにころりと同調するのでしょうか。やはりそれは、「俺は普通の『学者バカ』と違って『市民感覚』が分かるんだぞ」という、自負心が暴走した結果なのでしょうか。
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しかし思うのですが、とりわけ人文学や社会科学なんてのは、「市民感覚」というものを分析し相対化して、新たな感覚を探るのが使命ではないでしょうか。象牙の塔に籠りきりでもそれは良くないでしょうが、「市民感覚」に泥みきってしまっても、役目を果たせないのではないでしょうか。
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そういえば、呉座さんの件で暴走して、北村先生への執拗な誹謗中傷で苦情が来た(訴訟まで行ったのか、詳細は存じませんが)山内雁琳氏も、白饅頭を「師匠」と呼んでました。その結末が、博論を出せず非常勤も失ってしまうという苦境なわけですが、氏もまた白饅頭の犠牲者ともいえましょう。
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私はふと検索してみたことがあるのですが(我ながら意地が悪いとは思いますが)、ここ1年くらいの雁琳氏のツイッターでは、氏の専門のはずのベルクソンよりも、白饅頭の方が言及頻度がずっと高いのです。ベルクソンの思想の研究者をやめて、白饅頭的ネット評論家になるつもりなのでしょうか。
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というわけで、「白饅頭は毒饅頭」なのです。それは万人にとって、理想を見失って冷笑の罠に陥る碌でもないものですし、とりわけ研究と教育を業務とする研究者には、職を失わせるほど有害の度が高いのです。どうか今からでも一人でも多くの人が、毒饅頭から解毒されますように――でもどうすれば?
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歴史(に限らずよろず学問)は、学べば学ぶほど「ややこしい」ものです。それが「目から鱗が落ちた!はっきり分かった!」というのは、偏見に満ちた陰謀論に落っこちた、ということがほとんどです。それはまさしく歴史的な具体例がいくらでも転がっています。 twitter.com/naruhiko_kurod…
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こちらのご指摘は大事で、戦前の悪名高い治安維持法も、制定時点ではそこまで考えてなかったような運用が、なし崩しにされていってしまい、現状を追認するように法自体が改正強化(改悪)されてしまいます。それを防ぐには、常に運用を監視して声を上げ続けないといけません。 twitter.com/t_wak/status/1…