障害者差別解消法の話、人権の話ではなく「誰だって感謝の気持ちが大事」って話に矮小化されるあたりに日本の道徳教育で学んだことが反映されている感じがしてる... 「人権」について学ぶのになぜか「思いやり」の話に終始するような。人権を学ぶ機会が本当に必要。
最近気がついたのは、「自分は差別について深く考えたことがなかった。そこまで考える必要性がなかった。」ということを受容するまでが一番大変で勇気のいる一歩ということ。それが受容できるためには心理的安全性が保たれている場と時間が必要ということ。
Netflixでジェンダー平等のためにルース・ベイダー・ギンズバーグのドキュメンタリー。 「特権に慣れている人にとって『平等』は『抑圧』のように感じる」本当にその通りだな... netflix.com/title/80240086…
今名前をここで言いたいけれど言えない私にもイライラする。他にもいろんなことがあって、たまに全部ぶちまけたくなる。
以前問い合わせたことのある私立学校、「共生」や「インクルーシブ」を謳ってたから「障害のある子どもに対してどんな配慮の実績がありますか?」って聞いたら「うちは障害のある子どもにもない子どもにも平等に同じ対応してて特別なことはしていません」って言ってて、「あー...」ってなった。
仕事のことを四六時中考えることができたり、休みだろうがなんだろうが電話に出られたりするのは、それができるようにケアしてくれる人がいるから。そういう人だけが評価されるから、意思決定層には配偶者のいる男性ばかりなのに、「能力の違い」と言われる。企業でもあるある。
そして人を「感情的かロジカルか」で分類するのもどこからきたのだろう。謎。ロジカルな時も感情的な時もある。誰にだって感情はある。表現方法はそのときによって違う。自分なりの表現方法知るの大事。とか、そういうことの共通理解なかなか持つの難しい。
差別や偏見をなくすためには、「思いやり」や「想像力」よりも、いかに今の社会が権力のある立場や主流に属する立場に偏った社会か、これまで差別を撤廃するためにどんな出来事があったか、などの知識を得る機会が本当に大切だと思う。
アメリカのドラマ、自助グループに行くのが当たり前感すごい。アルコール依存症の自助グループ、恋愛・セックス依存症の自助グループ、自閉症自助グループ、家族の自助グループ...いろんなドラマに出てくる。 助けを得ること、弱さを自己開示するのが当たり前というのがとても素敵と思う。
産後、いろんな人に「キツいよ」と言われてたけどほんとキツい。会陰切開の傷の痛みで少し動くだけで激痛、便秘からの痔疑惑でトイレの度に痛い&恐怖、母乳出すためのマッサージや出ない時のストレス、出たら出たでめっちゃ張って痛い、介護が必要なレベルでは...その中で慣れない赤子のお世話。
「自分達の世代が意思決定する立場になれば変わる!」と思っていたのに、30〜40代でもハラスメントや差別構造再生産しまくり言動が多くて焦りがすごい。
差別や格差をなくすために必要なのは「相手の立場に立つ想像力」とよく言われるけれど、相手がどんな立ち位置でどんな風景が見えているかなんて「想像力」ではわからない。社会における構造的な格差を知識として知り、自分の立ち位置を他者の立ち位置と相対化して捉える機会が必要。
東京都現代美術館にて、「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」。工藤春香さんの旧優生保護法や相模原殺傷事件を中心とした展示。いかに障害のある人の尊厳が奪われてきたか。そして、当事者運動が歴史を変えてきたか。おすすめ。 mot-art-museum.jp/exhibitions/mo…
子どもを育てている保護者、行政や学校と交渉が必要な時、母親だと適当にあしらわれるが、父親だと交渉がうまくいく、先方の態度が一変する、とよく聞く。こういうところ本当に変えたい。
「妊婦体験」とか「障害体験」とかってちょっと体験して「わかった」気になってしまいがちなので、何もやらないより余計に「害」があるのでは?と思う。意思決定層が同質のまま「体験」だけやってわかった気になって政策決めないでほしい。
「学歴」も特権である、という話をすると、その他については納得する人も納得できない、という声をよく聞く。学歴はその人の努力次第、と思っている人が多い様子。「努力をすればなんでもできる」というのは本当に救いにもなり呪いにもなる。
「人権の侵害」と「不快」の違いが共通認識できていないことは多々ありそう。
小田急線の事件。女性を選んで攻撃したヘイトクライム。そんなこと絶対に許されないはずなのに、加害者の行動に理解を示す人たちがいることがその背景にある問題を示唆している。相模原市のヘイトクライムが起きた時と同じ構造。
無意識下のバイアスやマイクロアグレッションについて講演や研修をすると「そんなこと言われたら誰かとカジュアルに話せなくなる」と言われることがしばしばある。「これまで自分としては『カジュアルに』話していたつもりが差別発言をしていた可能性があることは、今日ご認識いただいたかと思います続
発達障害のある子への支援、「自己肯定感を高めよう!」「強みを活かそう!」的なところに焦点があてられることが多くなってきたが、このアプローチは気をつけないとすぐに自己責任論につながる。
「学校で性暴力被害がおこったら」手引きめちゃくちゃわかりやすい。学校関係者のみでなく、子どもに関わる支援職みんな参考になるかと! onestop-hyogo.com/wp-content/upl…
「障害の有無関わらず」や、「誰もが特性がある」という言葉が、障害がある人の受けている抑圧や障害のない人の特権を不可視化・矮小化するために使われないようにするには、かなり注意が必要だと思う。
アンガーマネジメント、SST、CBT、マインドフルネス、などのアプローチ、気を付けないと社会の構造的な問題を個人化して、自己責任論を強化してしまう。
差別的言動がどれだけ社会で重く捉えられているかがわかる。 「差別的発言」に対して、「言った人にも事情があった」「賛否両論」「炎上」などの報道を聞く子どもたちと、「差別的発言で無期限出演停止処分」の報道を聞く子どもたち。 nikkansports.com/baseball/mlb/n…
「できる」「できない」の物差しだけで人を見ていないか。「生産性」で「効率的」の物差しで人や自分を測っていないか。なにかがうまくいかないのはその人の努力不足、自己責任と切り捨てていないか。人の幸せがなにかを勝手に規定していないか。 #PrayForSagamihara